南スーダンの独立
概要
アフリカで最も長い内戦のあと、住民投票で99%が独立を選んだ。世界で最も新しい国。二年後に大統領と副大統領の派閥が戦い始め、40万人が死んだ。
場所
4.85°N 31.58°E · 南スーダン
本文
スーダンは1956年1月1日にイギリスとエジプトの共同統治から独立した。この共同統治は、19世紀末にイギリス軍がマフディー派の国家を倒して始まったものである(ハルツームの陥落)。だが北と南はほとんど別の国だった。北はアラビア語を話すムスリムが多く、首都ハルツームに権力が集まっていた。南は黒人の諸民族が住み、キリスト教や土着の信仰を持ち、植民地時代のイギリスは南北を分けて治めていた。独立の直前、1955年8月に南の町トリトで兵士が反乱を起こし、これが第一次内戦の始まりになる。戦いは1972年のアディスアベバ合意で南に自治を認めて、いったん終わった。
1983年、ヌメイリ大統領が南の自治を骨抜きにし、イスラム法(シャリーア)を国じゅうに課すと、南は再び立ち上がった。軍の大佐だったジョン・ガランがスーダン人民解放軍(SPLA)を率い、第二次内戦は22年続く。アフリカで最も長い内戦の一つである。死者は200万人ほどとされ、その多くは戦闘ではなく飢饉と病気で死んだ。家を追われた人は400万人にのぼる。親を失った2万人ほどの少年たちが、徒歩でエチオピアへ、そこも追われてケニアの難民キャンプへとたどり着いた。「失われた少年たち」と呼ばれ、のちに数千人がアメリカに受け入れられた。

内戦の後半には、南の地下に石油があることが戦いの意味を変えた。油田の周りから住民が追い払われ、北の政府は石油の収入で武器を買った。2005年1月、ケニアのナイヴァシャで重ねた交渉の末に包括和平合意が結ばれる。南に自治政府を置き、6年後に住民投票で独立するかどうかを決める、という約束だった。ガランはスーダンの第一副大統領になったが、わずか3週間後の7月30日、ウガンダからの帰りにヘリコプターが墜落して死んだ。南スーダンの統一を説いていた指導者を失い、後を継いだのは、カウボーイハットをかぶった寡黙な軍人サルヴァ・キールだった。
住民投票は2011年1月9日から15日に行われ、98.83%が独立を選んだ。7月9日、首都ジュバで独立の式典が開かれた。そこにはハルツームの大統領バシールが座っていた。数十年戦った相手の祝いの席である。バシールはダルフール紛争をめぐって国際刑事裁判所から逮捕状を出されていた。7月14日、南スーダンは193番目の国連加盟国になった。いまも世界で最も新しい国である(南スーダン)。

独立は、石油の問題を解かなかった。旧スーダンの石油の4分の3ほどは南で出るのに、積み出すパイプラインと紅海の港は北にあった。通過料をめぐって争い、南は2012年1月に自ら石油の生産を止めた。国の収入のほとんどを石油に頼る国が、1年あまり蛇口を閉めたのである。4月には南の軍が国境の油田ヘグリグを占領し、国際的な非難を浴びて引き揚げた。境界のアビエイ地域がどちらに属するかは、いまも決まっていない。
2013年12月15日の夜、ジュバの大統領警護隊の中で銃撃が起きた。キール大統領は、7月に解任した前副大統領リエック・マシャールがクーデターを企てたと言い、マシャールは否定して反乱軍を率いた。キールは最大民族ディンカの出身、マシャールは第二の民族ヌエルの出身である。ジュバではヌエルの住民が殺され、反撃でボルやベンティウ、マラカルではディンカが殺された。2018年までの死者は40万人近くと推計されている。2017年2月には一部の地域で飢饉が宣言された。国連の機関が正式に「飢饉」と言ったのは、2011年のソマリア以来だった。
2018年に和平が結ばれ、2020年にマシャールは第一副大統領に戻った。だが統一された軍は作られず、選挙は何度も延期され、2026年まで先送りされた。2025年にはマシャールが再び拘束され、内戦への逆戻りが心配されている。北のスーダンでも2023年から軍と準軍事組織の戦争が続き、難民が南へ逃げてきている。独立を選んだ人びとが望んだのは自分たちの国だったが、自分たちの国を平和に治めるという仕事は、独立の日からまだ終わっていない。