ナマジラの市民権
概要
先住民として初めて市民権を与えられた画家が、その権利で買った酒を親族に分けた。当時、市民権のない先住民に酒を渡すのは犯罪だった。有罪になり、釈放の翌年に死ぬ。
場所
-23.70°N 133.88°E · オーストラリア・ノーザンテリトリー
関わった人(1)
アルバート・ナマジラAD1902年7月28日–AD1959年8月8日 · 受けた側本文
アルバート・ナマジラは、1902年、オーストラリア中央部のハーマンスバーグにあるルター派の伝道所で生まれた(アルバート・ナマジラ)。アリススプリングスから西へ130キロほどの、赤い大地と岩山の中である。アレンテ(アランダ)の人びとの一人で、伝道所で洗礼を受け、アルバートという名を与えられた。13歳のころ、成人の儀礼を受けるために伝道所を離れて茂みで暮らし、自分の民の掟と、土地にまつわる物語を学んだ。
若いころは、伝道所で牛の世話をしたり、ラクダを引いたり、木を彫って土産物を作ったりして暮らした。1934年、メルボルンから画家のレックス・バタビーが伝道所を訪れ、水彩で風景を描いて展覧会を開いた。ナマジラはそれに強く惹かれた。1936年、バタビーが再び描きに来たとき、彼はラクダ引きとして案内役を買って出た。その代わりに、水彩の描き方を教えてほしいと頼んだ。

教わったのは、わずか2か月ほどだったという。だがナマジラはすぐに自分の画風をつかんだ。白く輝くゴーストガムの木、紫や赤に染まる岩山、乾いた川床。故郷の土地を、強い光と澄んだ色で描いた。1938年、メルボルンで開かれた初めての個展では、出品した絵が数日で売り切れた。
彼の絵は、西洋の画法による風景画で、先住民の伝統の文様を描いたものではない。だからこそ白人の観客に受け入れやすかった、と後に言われた。だが彼が描いた山や木は、アレンテの人びとにとって祖先の物語が宿る土地そのものだった。ナマジラは、ただ景色を写していたのではなく、自分の民の土地を描いていたのだ、と見る人は多い。

彼は国中で知られる画家になった。1953年には女王の戴冠記念の勲章を受け、翌1954年、オーストラリアを訪れたエリザベス2世に謁見した。絵は高い値で売れ、大勢の画家が彼の画風を学んだ。ハーマンスバーグの水彩画の流れは、彼の息子たちや親族に受け継がれていった。
それでも、法の上の彼の立場は、白人の市民とは違っていた。ノーザンテリトリーでは、先住民のほとんどが政府の「被保護者」とされ、住む場所や移動、結婚、財産の扱い、そして酒を飲むことまで役所の管理を受けた。ナマジラは稼いだ金で土地を借りてアリススプリングスに家を建てようとしたが、認められなかった。多くの親族を養っていた彼は、粗末な小屋で暮らすことも多かった。
1957年、ナマジラと妻のルビナは、被保護者の扱いから外され、白人と同じ市民の権利を認められた。投票ができ、酒を買うことができ、土地を持つことができる。ノーザンテリトリーの先住民としては初めてのことで、新聞は大きく報じた。国の寛大さを示す出来事として受け止められた面もあった。
だが、その権利は彼一人のものだった。親族は、依然として被保護者のままである。アレンテの社会では、持てる者は持たざる親族と分け合わなければならない。分け合わない者は、親族の一員でいられない。ナマジラのもとには、酒を求める親族が集まった。
1958年、ナマジラは被保護者である親族に酒を渡したとして起訴され、有罪となった。言い渡されたのは6か月の重労働の刑だった。国中から寛大な処置を求める声が上がり、刑は3か月に減らされ、彼は刑務所ではなく、中央砂漠の先住民の集落で監視を受けながら刑期のうち2か月ほどを過ごした。
釈放されたとき、彼は心も体も衰えきっていた。1959年8月、アリススプリングスの病院で死んだ。57歳だった。
ナマジラの死の後、先住民の権利をめぐる状況は少しずつ動いた。1962年には連邦選挙での投票権が先住民に広く認められ、1967年の国民投票では、憲法から先住民を除外していた二つの条項が取り除かれ、連邦政府が先住民のための法律を作れるようになった(1967年の国民投票(オーストラリア))。同じ時代、先住民の子どもを家族から引き離す政策が続いていたことも、のちに明らかになる(盗まれた世代)。
ナマジラの絵の著作権は、死後に州の管理の下で家族の手を離れ、1983年には出版社に売り渡された。子孫たちが長い交渉の末にそれを取り戻したのは、2017年のことである。いま彼は、オーストラリアの先住民の芸術家として最初に広く名を知られた人として、また、二つの世界の法の間で引き裂かれた人として記憶されている。