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Person / 人

エミリオ・アギナルド

Emilio Aguinaldo
AD1869年3月22日 – AD1964年2月6日(享年94)
フィリピン重要度 4

概要

カヴィテの町長。カティプーナンの蜂起で軍を率い、創設者ボニファシオを裁いて処刑した。1897年、香港へ亡命し、1898年、アメリカの艦に乗って戻り、6月12日、独立を宣言した。マロロス共和国の大統領。アメリカと3年戦い、1901年に捕らえられて忠誠を誓った。1935年の大統領選に落ち、日本占領下で協力し、95歳まで生きて、独立記念日が6月12日に戻るのを見た。

関わったできごと(1)

マロロス共和国AD1899年1月23日 · 大統領

本文

1869年3月22日、カヴィテ州カウィット(旧カビテ・エル・ビエホ)。中国系メスティーソの裕福な家。父は町長。サント・トマス大学を、コレラで父を失って中退した。17歳で町の役人、1895年、26歳で町長(カピタン・ムニシパル)。

1895年、カティプーナンに入った(結社名「マグダロ」)。1896年8月、蜂起。カヴィテで、アギナルドの部隊だけが勝ち続けた(イムス、ビナカヤン)。彼は名を得た。

カティプーナンは二つに割れた。マニラの労働者出身のアンドレス・ボニファシオ(創設者、最高議長)の「マグディワン」派と、カヴィテの地主層のアギナルドの「マグダロ」派。1897年3月22日、テヘロス会議。革命政府の役職の選挙。アギナルドが大統領(欠席のまま)、ボニファシオは内務大臣に選ばれたが、ダニエル・ティロナが「弁護士でない者に内務大臣は務まらない」と異議を唱えた。ボニファシオは会議の無効を宣言して、去った。4月、アギナルド側が彼を逮捕し、反逆罪で裁判にかけ、5月10日、マラゴンドンの山で、弟プロコピオと共に銃殺した。33歳。

1897年11月、ビアク・ナ・バトで共和国を宣言。12月、スペインと協定(ビアク・ナ・バト協定)。40万ペソと引き換えに、指導者が香港へ亡命する。金の一部が支払われ、アギナルドは香港へ。彼はその金を、武器を買うために使った。

1898年4月、米西戦争。5月1日、マニラ湾。デューイ提督が、香港のアメリカ領事を通じてアギナルドと接触し、彼を軍艦マッカロック号でカヴィテへ運んだ。「アメリカは植民地を求めない」と言われた、とアギナルドは主張し、アメリカは否定した。

6月12日、午後4時20分頃、カウィットの自宅のバルコニー。独立宣言が、フリアン・フェリペの作曲した行進曲と共に読み上げられた(後の国歌)。旗(太陽と3つの星、青と赤と白の三角)が掲げられた。宣言に署名した98人のうち1人は、アメリカ人の退役軍人だった。

8月13日、マニラの模擬戦。12月10日、パリ条約。

1899年1月23日、マロロス。フィリピン共和国。憲法は、フェリペ・カルデロンが起草し、議会(弁護士と医者と地主のエリート)が議論した。教会と国家の分離が、1票差(26対25)で通った。

2月4日夜、サン・フアン・デル・モンテの橋。アメリカ兵の歩哨が、フィリピン兵に発砲した。戦争。

正規戦では勝てなかった。1899年11月、アギナルドは軍を解散して、ゲリラ戦に移り、北のルソン山地へ逃げた。将軍グレゴリオ・デル・ピラールが、ティラド峠で60人と殿を務めて、全員死んだ(22歳)。

1901年3月23日、イサベラ州パラナン。フレデリック・ファンストン率いるアメリカ人5人と、マカベベ族(アメリカに協力した)の斥候80人が、フィリピン軍の援軍を装って(アメリカ人は捕虜のふりをして)、司令部に入り、アギナルドを捕らえた。

4月1日、忠誠を宣誓。4月19日、同胞に降伏を呼びかける布告を出した。

その後。マニラ郊外カウィットの家に住んだ。1935年、フィリピン・コモンウェルスの初代大統領選に出て、ケソンに大差で負けた。1942〜45年、日本の占領下で、対米抵抗をやめるよう呼びかける放送をした(後に協力の疑いで拘束され、恩赦された)。1950年、キリノ大統領が国家評議会の顧問に。

1962年、マカパガル大統領が、独立記念日を7月4日(1946年のアメリカからの独立)から6月12日(1898年の宣言)に変えた。93歳のアギナルドが、式典に出た。

1964年2月6日、94歳で死んだ。彼の家は、いま国の記念館。旗を掲げたバルコニーが残っている。