セコイア
概要
読み書きのできない銀細工師が、白人の「話す紙」を見て、12年かけてチェロキー語の音節文字を作った。数年で部族の大半が読めるようになる。
関わったできごと(1)
チェロキー文字の完成AD1821年 · 作った本文
セコイアは1770年ごろ、いまのアメリカ南東部、テネシー州東部にあったチェロキーの町タスキーギに生まれた。生まれた年は1760年から1776年まで諸説ある。母はチェロキーの有力な氏族の女性で、父は白人の商人だったとされるが、確かではない。セコイアはチェロキーの母のもとで育ち、英語は話せず、読み書きもできなかった。英語名をジョージ・ゲスといった。

若いころから脚が不自由だった。生まれつきとも、狩りでの怪我とも、病のためとも言われる。セコイアは銀細工の職人になり、鍛冶もした。腕のいい職人だったと伝えられる。1813年から翌年にかけての戦争では、アメリカ側についたチェロキーの部隊の一員として、敵対する別の先住民の勢力と戦った。
チェロキーは18世紀の末から、白人の入植者に土地を奪われ続けていた。条約のたびに土地は削られ、白人の側は書いた紙を根拠に権利を主張した。セコイアは、白人が紙に印を付け、遠くの人がそれを見て同じ言葉を語るのを、不思議な力と見ていた。チェロキーはこれを「話す葉」と呼んだという。それを白人だけの魔法ではなく、仕組みとして考えたところに、セコイアの違いがあった。言葉を印に置き換えられるなら、チェロキーの言葉でも同じことができるはずだ。

1809年ごろ、セコイアは文字づくりに取りかかった。初めは、一つの言葉に一つの絵を当てようとした。だがそれでは何千もの印が要り、覚えきれない。何年も試すうちに、彼はチェロキー語の言葉が、限られた数の音のまとまりの組み合わせでできていることに気づいた。音節ごとに一つの印を当てれば、数十の印で全ての言葉が書ける。印の形には、英語の綴りの本で見たアルファベットの形を借りたものもあったが、音とは関係なく当てた。
周りの人びとは、仕事も畑も放り出して印を書き続けるセコイアを、気が触れたか、魔術に手を出したと疑った。妻が作りかけの紙を火に投げ込んだ、という話も伝わっている。それでもセコイアはやめなかった。1821年、86字(のちに85字)からなる音節文字が完成した(チェロキー文字の完成)。

チェロキーの長老たちは、はじめ信じなかった。セコイアは幼い娘アヨカに文字を教え、二人を離れた場所に置いて、長老が言った言葉をセコイアが書き、娘がそれを読み上げてみせた。紙が言葉を運んだのである。長老たちは文字を認めた。
この文字の強みは、覚えやすさにあった。チェロキー語を話す人なら、印と音の対応を覚えるだけで読み書きができる。数週間で、あるいは数日で読めるようになったという記録もある。文字は人から人へ、町から町へと伝わり、数年のうちにチェロキーの多くの人が読み書きをするようになった。同じ頃の周りの白人社会より、読み書きのできる人の割合が高かったとも言われる。

チェロキーは文字を国づくりに使った。1827年には憲法を定め、1828年には英語とチェロキー語の二つの言葉で書かれた新聞『チェロキー・フェニックス』を創刊した。聖書や賛美歌も訳された。白人の社会の仕組みを取り入れ、自分たちが「文明化」した国であることを示せば、土地を守れる。そう考えた人が多かった。
その期待は裏切られた。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領のもとで、先住民をミシシッピ川の西へ移す法が作られた。チェロキーは裁判でも争い、連邦最高裁は彼らの主張を認める判決を出したが、政府はそれを実行しなかった。1838年から翌年にかけて、チェロキーは兵に追い立てられ、いまのオクラホマへ移された。道中で4000人ほどが死んだとされる。「涙の道」である(涙の道)。

セコイア自身は、強制移住より前の1820年代に、すでに西へ移っていたチェロキーの人びとに加わり、アーカンソーからオクラホマへ移っていた。移住のあと、東から来た人びとと先に西にいた人びとが一つの国にまとまる話し合いでも、セコイアは和解に力を尽くしたとされる。
晩年、セコイアはメキシコへ移ったチェロキーの一団を探して旅に出た。1843年ごろ、メキシコ北部で死んだと伝えられる。墓の場所は分かっていない。

チェロキー文字は、いまもチェロキーの人びとのあいだで使われ、学校で教えられ、標識や本に書かれている。読み書きのできなかった一人の職人が、独力で一つの民族の文字を作った例は、世界の歴史でもほとんど無い。北米の巨木セコイアの名は、この人にちなんで付けられたとよく言われるが、名付けた植物学者がそう書き残したわけではなく、確かなことは分かっていない。