ユーグ・カペーの即位
概要
カロリング家の王が狩りで死に、ランス大司教が「王位は世襲ではなく選ばれるもの」と説いて、パリ伯を選ばせた。自分の領地は小さく、諸侯は従わなかった。だがその家が、以後800年続く。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ユーグ・カペーAD940年頃–AD996年 · 王本文
カール大帝の大きな帝国は、孫たちの代に分けられた。843年のヴェルダン条約で西の部分を受け継いだのが、のちのフランスにあたる西フランク王国である。だが、9世紀から10世紀にかけて、王の力は衰え続けた。北からはヴァイキングが川をさかのぼって町や修道院を襲い、王はそれを防ぎきれなかった。実際に外敵と戦ったのは、各地の伯や公と呼ばれる有力者たちで、彼らは自分の領地を世襲し、王とほとんど変わらない力を持つようになった。セーヌ川の河口には、ヴァイキングの首領が居座ってノルマンディー公となる(ノルマンディー公国の成立)。
そうした有力者の中で、最も王に近かったのが、パリの周りを治めるロベール家だった。885年から翌年にかけて、ヴァイキングがパリを包囲したとき、町を守り抜いたのはパリ伯ウードである。888年、ウードは、カロリング家の外から初めて王に選ばれた。のちにその弟のロベール1世も922年に王となり、923年には、ロベール家の娘婿ラウルが王位に就いた。10世紀の西フランクでは、カロリング家とロベール家が、王位を行ったり来たりしていたのである。

ロベール家のユーグ大公は、自分は王にならず、カロリング家の王を立てて後ろから支える道を選んだ。その息子が、のちにユーグ・カペーと呼ばれる人物である(ユーグ・カペー)。父からパリ伯とフランス公の地位を受け継いだユーグは、王よりも多くの土地と家臣を持っていた。
987年5月、カロリング家の若い王ルイ5世が、狩りの最中に落馬して死んだ。20歳前後で、子はいなかった。カロリング家の血を引く者としては、ルイ5世の父ロテール王の弟、下ロレーヌ公シャルルが残っていた。

王を選ぶ集会は、パリの北のサンリスで開かれた。その場で、ランスの大司教アダルベロンが演説し、シャルルを退けた。シャルルは東の王、つまりドイツの王の家臣になっており、身分の釣り合わない妻を迎えている、というのがその理由だった。アダルベロンは、ドイツの王家オットー朝と親しい人物でもあった。演説はさらに、王国は世襲によって得られるものではなく、高貴な血筋だけでなく知恵と信仰と寛大さで優れた者が選ばれるべきだ、と説いた。そしてユーグこそがふさわしい、と。この演説を伝えているのは、ランスの修道士リシェの年代記である。演説の起草には、大司教の側近で、ランスの学校で教えていた学者ジェルベールが関わったと考えられている。ジェルベールはのちに教皇シルウェステル2世となる。
ユーグは王に選ばれ、987年7月3日に戴冠した。場所はノワイヨンとする説とランスとする説がある。その年の暮れ、ユーグは息子のロベールを共同の王として戴冠させた。スペインのキリスト教徒の国からイスラームの軍との戦いへの助けを求められており、遠征に出るには王が二人要る、というのが表向きの理由だった。アダルベロンはためらったが、押し切られた。
これが、カペー家が長く続いた秘密になった。王が生きているうちに息子を王として戴冠させておけば、王が死んでも選挙は開かれない。以後、カペー家の王たちは代々これを繰り返し、1179年、のちにブーヴィーヌの戦いの勝者となるフィリップ2世が戴冠するまで続けた。そのころには、王位は父から子へ受け継がれるものだと、誰も疑わなくなっていた。選ばれた王の家が、選ばれることをやめたのである。

ただし、ユーグの王としての力は小さかった。直接治めていたのは、パリとオルレアンを中心とした、セーヌ川とロワール川の間の細長い土地にすぎない。ノルマンディー公、ブロワ伯、アンジュー伯、フランドル伯、アキテーヌ公など、名目上は王の家臣である諸侯の多くが、王よりも広い土地を持っていた。誰があなたを伯にしたのか、と王が問いただすと、誰があなたを王にしたのか、と言い返された、という逸話が残っている。11世紀の年代記作者が伝えるもので、言い返したのはペリゴール伯とされる。
シャルルは王位をあきらめなかった。988年、カロリング家の古い拠点ランの町を奪い、ユーグの軍を退けた。だが991年、ランの司教の裏切りに遭って捕えられ、オルレアンの牢に入れられて、そこで死んだ。カロリング家の男系は、こうして王位の争いから消えた。ユーグは996年に死に、共同の王だったロベール2世がそのまま後を継いだ。

カペーという呼び名の由来ははっきりしない。短いマント(カッパ)を好んで着ていたから、という説や、聖マルティヌスのマントを宝とするトゥールの修道院の長を兼ねていたから、という説がある。いずれにしても、本人が生きていた時代の記録にこの呼び名は見えず、のちに付けられたあだ名である。
ユーグに始まる王の家は、ヴァロワ家、ブルボン家と分家に受け継がれながら、フランスの王位を800年以上にわたって保った。1792年に王政が廃止されると、革命の側は王を、王の称号ではなく家の祖の名で呼んだ。翌年の裁判で、ルイ16世は「ルイ・カペー」として裁かれ、処刑されている。