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Event / できごと

赤眉と緑林の乱

Red Eyebrows and Lulin rebellions
AD23年
重要度 5

概要

王莽の改革で土地と貨幣が乱れ、飢えた民が眉を赤く塗って山東で立ち、湖北の緑林山にも集まった。劉秀が昆陽で王莽の42万を1万で破った。10月、長安。王莽は未央宮の高台で殺され、首は市で蹴られた。15年の新が終わり、2年後、劉秀が漢を再興した。

場所

昆陽
33.60°N 113.30°E · 中国・河南省葉県

関わった人(1)

光武帝BC5年–AD57年 · 昆陽で勝った

本文

王莽の新は15年で終わった。土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、貨幣を5回変え、官名を古い名に戻し、匈奴と高句麗の王を「侯」に格下げして怒らせた。改革は帳簿の上では周の理想で、村では飢えだった。

17年、山東で樊崇が数百人で立った。仲間を見分けるために眉を赤く塗った。赤眉。湖北の緑林山では王匡と王鳳が飢えた民を集めた。緑林。漢の皇族の劉縯と劉秀の兄弟が緑林に合流し、23年、遠縁の劉玄を更始帝に立てた。

同じ年の6月、王莽は42万と称する軍を昆陽へ送った。城には9000人。劉秀は13騎で囲みを抜け、近くの兵をかき集めて3000人で戻り、本陣を突いた。雷雨と洪水。新の軍は川で溺れた。10月、緑林軍が長安に入り、王莽は未央宮の漸台で殺された。首は宛の市に懸けられ、人々が蹴って遊んだ。舌は切り取られて食べられたと言う。

更始帝は劉縯を殺し、劉秀は兄の喪を秘して従い、河北へ逃げた。25年、劉秀が皇帝に。光武帝。赤眉は長安で更始帝を殺し、飢えて東へ戻る途中、27年に光武帝に降った。

新と後漢の間の10年で、中国の人口は帳簿の上で3分の1になった。

同じ時代のできごと

トイトブルク森の戦いAD9年王莽が新を建てるAD9年ローマの絹AD14年後漢の成立AD25年ステファノの殉教AD34年頃セイヤヌスの失脚AD31年10月18日徴姉妹の蜂起AD40年金官伽耶の建国(伝承)AD42年(伝承)