赤眉と緑林の乱
概要
王莽の改革で土地と貨幣が乱れ、飢えた民が眉を赤く塗って山東で立ち、湖北の緑林山にも集まった。劉秀が昆陽で王莽の42万を1万で破った。10月、長安。王莽は未央宮の高台で殺され、首は市で蹴られた。15年の新が終わり、2年後、劉秀が漢を再興した。
場所
33.60°N 113.30°E · 中国・河南省葉県
関わった人(1)
光武帝BC5年–AD57年 · 昆陽で勝った本文
紀元9年、漢の外戚だった王莽は、幼い皇帝から位を譲られる形で即位し、国の名を新と改めた(王莽が新を建てる)。儒学の経典に描かれた周の時代を理想とした王莽は、その理想を現実の制度にしようとした。
改革は大胆だった。天下の田をすべて王のものとして売買を禁じ、一家の土地の広さに上限を設けた。奴婢の売買を禁じた。貨幣の制度を何度も改め、形も価値も違う多くの種類の貨幣を発行した。役所の名や地名を古典に基づいて次々に変えた。外交でも古典の秩序にこだわり、匈奴の単于に与えていた印を格下げし、高句麗の王を侯と呼び変えて、周辺の国々の反発を招いた。改革は帳簿の上では理想の実現だったが、村では混乱を生んだ。貨幣が変わるたびに商売は止まり、禁令に触れて罪に問われる者が相次いだ。

そこへ天災が重なった。黄河が大きく流れを変えて下流の平原が水に浸かり、蝗の害と日照りも続いた。飢えた民は流民となって土地を離れ、盗賊の群れに加わった。
17年ごろ、長江中流の北、いまの湖北の山地で、王匡と王鳳が飢えた民を集めた。彼らが拠った山の名から、この集団は緑林と呼ばれる。のちに「緑林」は、山にこもる盗賊や義賊を指す言葉にもなった。18年には、山東の琅邪で樊崇が数百人で兵を挙げ、まもなく数万に膨れ上がった。彼らは戦いの際に官軍と見分けるため、眉を赤く塗った。赤眉である。赤眉の兵は、人を殺した者は死刑、人を傷つけた者は償いをさせる、という素朴な決まりを持っていたと伝えられる。

22年、南陽の豪族で漢の皇族の血を引く劉縯と劉秀の兄弟が兵を挙げ、緑林の流れをくむ集団と手を結んだ。兄の劉縯は勇ましく人望があり、弟の劉秀は農業や商売に励む慎重な人柄だったと伝えられる。23年の初め、反乱軍は兄弟の遠縁の劉玄を皇帝に立てた。年号から更始帝と呼ばれる。漢の皇族を立てることで、反乱は「漢を復興する」という旗印を得た。
これに対して王莽は、23年の夏、大軍を差し向けた。史書は「百万と号し」、実数は42万と伝える。猛獣まで連れていたという。大軍は、南陽の北の小さな城、昆陽を囲んだ。城の中には、劉秀ら8000から9000人ほどの兵しかいなかった。劉秀は夜、わずか13騎で囲みを破って城を抜け出し、近くの城から兵をかき集め、数千人を率いて戻った。自ら先頭に立って敵陣に突入し、総大将の一人王尋を討ち取ると、城の兵も打って出た。折から激しい雷雨と大風が起こり、川があふれた。新の大軍は総崩れとなり、川で溺れた者は数知れなかったという。これが昆陽の戦いで、新の命運はここで尽きた。

各地で反乱が相次ぎ、23年の10月、反乱軍は長安に攻め入った。宮殿に火が放たれ、王莽は未央宮の池の中の高台、漸台に逃れたが、そこで殺された。首は更始帝のもとに送られて宛の市にさらされ、人びとはそれに物を投げつけ、舌を切り取って食べた者もいたと『漢書』は伝える。新は、建国から15年で滅んだ。
だが漢の復興はすぐには来なかった。更始帝は、人望の厚い劉縯を恐れて殺した。劉秀は兄の死を悼むそぶりも見せず、更始帝に謝罪して疑いを避けた。やがて河北の平定を命じられて都を離れると、そこで自らの勢力を築き、25年に皇帝の位についた。これが光武帝で、都を洛陽に置いた新しい漢、後漢の成立の始まりになる。
一方の赤眉は、更始帝の政権と対立し、25年、自分たちの中から劉氏の血を引く15歳の牧童、劉盆子を皇帝に立てた。くじで選ばれたと伝えられる。赤眉は長安に入り、更始帝を降伏させたのちに殺した。だが数十万の赤眉の兵を養う食料はなく、長安とその周辺は略奪され、前漢の皇帝たちの陵墓まで暴かれた。食い詰めた赤眉は西へ、また東へとさまよい、27年の初め、待ち構えた光武帝の軍の前に降伏した。光武帝はその後10年あまりをかけて各地の勢力を平らげ、天下を再び統一する。
光武帝は即位ののち、戦乱の中で奴婢に落とされた人びとを解放する詔を何度も出し、各地の田地と戸口を調べ直させた。王莽が一気に断行しようとして失敗したことを、少しずつ、豪族と折り合いをつけながら進めたとも言える。前漢の制度の多くは、こうして後漢に引き継がれた。
戦乱の傷は深かった。前漢の末、紀元2年の戸籍には6000万人近い人口が記録されていたが、光武帝の晩年、57年の戸籍では2100万人あまりしかない。戦乱と飢えで多くの人が死んだのは確かだが、流民となって戸籍から漏れた人も多く、帳簿の上の数字ほど人が減ったわけではないとする見方もある。
赤眉と緑林の乱は、飢えた農民が王朝を倒した反乱として、のちの中国の歴史で繰り返し思い起こされた。150年あまりのち、後漢もまた黄巾の乱という民衆の反乱をきっかけに崩れていく。理想を掲げた改革が民の暮らしを顧みなかったとき何が起こるかを示した例として、王莽の新はいまも語られる。