クリミアの編入
概要
ロシアが住民投票を根拠に編入を宣言した。国連総会はこれを認めない決議を採択している。この地図は2010年の国境のまま描いており、承認が割れている状態をそのまま置いてある。
場所
44.61°N 33.52°E · クリミア半島(帰属について国際的な承認が割れている)
本文
2013年11月、ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領は、準備していた欧州連合との連合協定の署名を見送った。ロシアからの圧力と経済支援の約束があったためとされる。首都キーウの独立広場(マイダン)に抗議の人々が集まり、冬を越して座り込みが続いた。2014年2月には治安部隊との衝突で100人を超える死者が出て、22日にヤヌコーヴィチは首都を逃れ、議会は彼を解任した。
その直後、黒海に突き出たクリミア半島で事態が動いた。2月27日、武装した男たちがクリミア自治共和国の議会と政府の建物を占拠し、ロシア国旗を掲げた。議会はその中で親ロシア派の政治家を首相に選んだ。続いて、記章を外した軍服の兵士たちが空港や軍の施設、ウクライナ軍の基地を取り囲んだ。ロシア政府は当初、彼らを地元の自警団だと説明したが、のちにプーチン大統領はロシア軍の兵士が加わっていたことを認めている。セヴァストポリには、もともと協定に基づいてロシアの黒海艦隊が置かれていた。
![オスマン帝国の宗主下にあったクリミア・ハン国[注釈 1]をロシアに併合した、エカテリーナ2世](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Catherine_II_by_F.Rokotov_after_Roslin_%28c.1770%2C_Hermitage%29.jpg/960px-Catherine_II_by_F.Rokotov_after_Roslin_%28c.1770%2C_Hermitage%29.jpg)
3月16日、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われた。発表では投票率83%、編入への賛成は96%を超えた。実施が決まってから3週間足らずで、武装した兵士がいる中で行われ、独立した国際的な監視団もいなかった。ウクライナ憲法は、領土の変更には全国での投票が必要だと定めている。18日、プーチン大統領はクレムリンでクリミアの代表と編入の条約に署名した。
国際社会の反応は割れた。国連総会は3月27日、この住民投票を無効とし、ウクライナの領土の一体性を確認する決議を、賛成100、反対11、棄権58で採択した。棄権と欠席が多く、すべての国が同じ見方をしたわけではない。欧米と日本は経済制裁を科し、ロシアは主要8か国の枠組みから外された。翌月にはウクライナ東部のドンバス地方で、親ロシア派の武装勢力とウクライナ政府軍の戦闘が始まった。2018年にはロシア本土とクリミアを結ぶ橋が開通し、2022年にはロシアがウクライナへの全面的な侵攻に踏み切る(ロシアのウクライナ侵攻)。

この地図は2010年の国境のまま描いている。取り込んだ世界地図がそこで止まっているという事情もあるが、承認が割れているものを一方に塗り分けないという判断でもある。
半島の帰属は、これまでも何度も動いてきた。15世紀からはクリミア・ハン国が治め、オスマン帝国の保護下にあった。1783年、エカチェリーナ2世のロシア帝国がこれを併合し、同じ年にセヴァストポリの港を築いて黒海艦隊の拠点にした。19世紀半ばには、この港をめぐって英仏とオスマン帝国がロシアと戦った(クリミア戦争)。

20世紀には、住民の構成が大きく変わった。第二次世界大戦の末期の1944年、スターリンはクリミア・タタール人がドイツに協力したとして、民族ごと中央アジアへ強制移住させた。移送の途中や移住先で多くが死んだ。帰還が認められたのはソ連の末期になってからである。空いた土地にはロシア人などが移り住んだ。
1954年、ソ連の指導部は、クリミアをロシア共和国からウクライナ共和国へ移した。ウクライナとロシアの統合300年を記念するという名目で、ニキータ・フルシチョフの時代のことである。同じ国の中の線の引き直しだったので、当時はほとんど誰も重く見なかった。その線が、1991年のソ連の解体で国と国の境になった。

独立後のウクライナで、クリミアは自治共和国になった。2001年の国勢調査では、住民の6割近くがロシア系、4分の1近くがウクライナ系、1割あまりがクリミア・タタール人だった。1994年、ウクライナは旧ソ連から引き継いだ核兵器を手放す代わりに、ロシア、アメリカ、イギリスから領土の尊重の約束を受けた(ブダペスト覚書)。黒海艦隊の駐留は、協定で延長されていた。2014年の編入は、その約束をロシア自身が破ったものだと、ウクライナと多くの国は見ている。ロシアは、ロシア系住民の保護と、住民自身の選択を理由に挙げた。
編入後、クリミア・タタール人の代表機関は活動を禁じられ、指導者の一部は半島への立ち入りを禁じられた。クリミアの帰属は、いまも国際的に解決していない。