ソロンの改革
概要
借金による奴隷化を禁じ、市民を財産で四つに分けた。民主政へ向かう最初の一歩とされる。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
ソロンBC630年頃–BC560年頃 · 当人本文
紀元前7世紀の終わりのアテナイは、深い亀裂を抱えていた。政治を握っていたのは、生まれのよい一握りの貴族たちで、毎年選ばれる最高の役人アルコンも、元アルコンが集まる評議会も、彼らが独占していた。紀元前620年ごろには、ドラコンが初めて法を文字にして示したが(ドラコンの成文法)、その刑罰は厳しく、貧しい者の苦しみは変わらなかった。
貧しい農民の多くは借金を抱えていた。収穫の6分の1を納める約束で土地を耕す者がいて、その土地には借金の担保を示す石の標識が立てられた。返せなければ、自分の身体と家族を担保にして借りるしかない。それも返せなければ奴隷となり、外国に売られることもあった。アテナイの市民が、市民でなくなっていく。貧しい者たちの不満は、いつ爆発してもおかしくなかった。

ソロンは、貴族の家に生まれたが、財産はさほど多くなく、若いころは交易で各地を旅したと伝えられる。詩人としても知られ、その詩の断片が、後の時代の書物に引用されて残っている。隣国メガラとのあいだで争われていたサラミス島を取り戻すよう市民を励ます詩で、名を上げたといわれる。
紀元前594年ごろ、ソロンはアルコンに選ばれ、対立する貴族と民衆のあいだを調停する役目を託された。彼がまず行ったのは、「重荷おろし」と呼ばれる改革だった。それまでの借金を帳消しにし、土地に立てられた担保の標識を引き抜いた。身体を担保に金を貸すことを禁じ、借金のために奴隷とされた人々を解放した。外国に売られた市民も買い戻させた。ソロンは後に詩の中で、大地から境界の石を引き抜き、かつて奴隷であった大地を自由にした、と誇っている。

次に、政治の仕組みを変えた。市民を、土地から取れる収穫の量に応じて四つの階級に分けた。最も豊かな階級は年に500メディムノス(穀物の量の単位)以上の収穫のある者で、そこから重い役職に就ける。最も下の階級は、土地を持たないか、わずかしか持たない労働者で、役職には就けないが、市民の集まりである民会には加わることができた。民衆が裁判に加わる仕組みも作られた。また、不正を受けた本人でなくても、誰でも訴えを起こせるようにしたとされる。
血筋ではなく、財産によって政治への関わり方を決める。豊かになれば、生まれに関係なく上の階級へ上がれる。貴族の独占を崩す、新しい考え方だった。ソロンは法を木の板に刻んで公の場に掲げ、誰でも読めるようにした。

だが、この改革はどちらの側も満足させなかった。民衆の中には、貴族の土地を分け直すことを期待していた者が多かったが、ソロンはそこまではしなかった。貴族は、借金の帳消しで財産を失った。ソロン自身は詩の中で、自分は両方の前に強い盾をかざして立ち、どちらにも不正な勝ちを許さなかった、と述べている。民衆の支持を背に独裁者になることもできたが、それを拒んだ。
改革の後、ソロンは10年間アテナイを離れて旅に出た、と伝えられる。市民に、法を一定の間変えないと誓わせたうえで、自分がいれば変更を迫られるからである。エジプトなどを訪れたといい、この旅をめぐってさまざまな逸話が生まれた。リュディアの王クロイソスと会い、富を誇る王に向かって、人は死ぬまで幸福だったとは言えない、と語った話は、ヘロドトスの『歴史』(ヘロドトス『歴史』)にある有名な場面である。ただし、クロイソスが王位に就いたのはソロンの改革より30年以上後で、年代が合わず、後の世に作られた話と考えられている。

ソロンの去った後のアテナイは、再び争いに陥った。アルコンが選べない年が続き、やがて紀元前561年ごろ、民衆の支持を集めたペイシストラトスが権力を握って僭主となった(ペイシストラトスの僭主政)。年老いたソロンは、市民に僭主の危険を警告したが、聞き入れられなかったと伝えられる。
それでも、ソロンの改革は後に戻らなかった。借金のために市民が奴隷にされることは、以後アテナイでは無くなった。ペイシストラトスも、ソロンの法の多くをそのまま残した。紀元前508年のクレイステネスの改革(クレイステネスの改革)によって、アテナイは民主政へ大きく踏み出す。ソロンの時代から、およそ100年をかけて、アテナイは市民が自ら国を治める仕組みを作り上げていった。

ソロンの改革について知る手がかりの多くは、紀元前4世紀に書かれた『アテナイ人の国制』という書物による。アリストテレスか、その弟子たちの作とされ、長く失われていたが、19世紀の末にエジプトで見つかったパピルスから全体が知られるようになった。ソロン自身の詩が引用されていることで、彼の言葉を直接聞くことができる。