ヴェルサイユ宮殿への移座
概要
貴族を宮廷に集めて日課で縛った。反乱を起こす暇を与えない仕掛けとして、絶対王政の手本になる。
場所
48.80°N 2.12°E · フランス
関わった人(2)
ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · 当人コルベールAD1619年8月29日–AD1683年9月6日 · 費用と戦った本文
1649年1月の夜明け前、10歳のフランス国王ルイ14世は、母后と宰相マザランに連れられて、ひそかにパリの宮殿を抜け出した。高等法院と貴族たちが王権に逆らったフロンドの乱が始まり、王の一家はパリにいられなくなったのである。寒さの中、郊外のサン・ジェルマン・アン・レーの城に着いた一行は、家具もそろわない部屋で藁の上に寝たと伝えられる。反乱はその後も数年にわたって続き、有力な大貴族たちが軍を率いて王に刃向かった。
1661年にマザランが死ぬと、22歳のルイ14世は、これからは宰相を置かず自ら政治を行うと宣言した。その年の夏、財務総監のフーケは、自分が建てたばかりのヴォー・ル・ヴィコントの城に王を招き、豪華な宴を催した。建築家ル・ヴォー、画家ル・ブラン、庭師ル・ノートルが手がけた城と庭は、王の城をしのぐほどだった。数週間後、フーケは公金の横領の疑いで捕らえられ、生涯牢から出られなかった。そして王は、フーケのために働いた3人の芸術家を、自分のために雇った。

舞台に選ばれたのは、パリの南西およそ20キロのヴェルサイユにあった、父ルイ13世の狩りの館である。沼の多い土地で、決して住みよい場所ではなかった。1660年代から工事が始まり、館は何度も建て増され、広大な庭園には運河と噴水が掘られた。噴水に水を送るためにセーヌ川から水を汲み上げる巨大な機械が作られ、遠くの川から水を引く工事には数万の兵が駆り出された。工事は王の治世のほとんどを通じて続いた。
財務を預かるコルベールは、この出費に眉をひそめた一人だった。コルベールは、王の栄光はパリのルーヴル宮にこそふさわしいと考え、狩りの館に大金を注ぐことに何度も苦言を呈したと伝えられる。しかし王は聞き入れなかった。1682年5月、王は宮廷と政府をヴェルサイユへ正式に移した。2年後には、庭に面した長さ70メートルを超える鏡の回廊が完成する。

王がパリを離れた理由は、一つではないとされる。幼いころの逃亡の記憶、群衆と高等法院のいる都への不信、そして狩りと庭への愛着。だが、ヴェルサイユがはっきり果たした役割がある。大貴族たちを、王の目の届くところに集めておくことである。王族や大貴族、その家臣と召使いまで含めて、宮殿とその周りには数千人が暮らし、日々数多くの人が出入りした。
王の一日は、それ自体が儀式だった。朝、寝室で王が目を覚ます「起床の儀」には、決まった順に決まった人々が入室を許される。王にシャツを手渡すのは、その場にいる最も位の高い者の務めだった。夜の「就寝の儀」では、王が燭台を持つ役を一人指名し、それに選ばれることが大きな名誉とされた。食事も、散歩も、ミサも、人々の目の前で行われた。誰が王の近くに立てるか、誰に王が声をかけるか。そのわずかな差に、貴族たちは一喜一憂した。

宮廷に住み、王の目に留まることが、官職や年金、軍の指揮権、そして一族の子の縁組を手に入れる近道になった。逆に領地に引きこもる者は、出世の道から外れる。後に宮廷の日々を回想録に書き残したサン・シモン公は、王が宮廷に顔を出さない者について、あれは見かけない男だ、とだけ言い、それがその者の運命を決めたと書いている。宮廷にふさわしい衣装、賭け事、もてなしには莫大な金がかかり、多くの貴族が借金を重ねた。かつらの宮廷に見られるように、身なりの流行もこの宮廷から生まれた。
こうして、かつて軍を率いて王に刃向かった大貴族たちは、王の寝室の前で序列を争う廷臣になった、と説明されることが多い。ただ近年の研究では、王が一方的に貴族を飼いならしたというより、貴族の側も王の恩恵を求めて宮廷に集まり、王と貴族が持ちつ持たれつの関係を結んだ面が強調されている。

ヴェルサイユは、ヨーロッパじゅうの君主の手本になった。ウィーンのシェーンブルン宮殿、ピョートル1世がバルト海のほとりに築いた夏の宮殿をはじめ、各地の宮廷がその建築と庭と作法を競って取り入れた。フランス語は外交と宮廷の言葉になった。
ルイ14世は1715年、ヴェルサイユで72年に及ぶ治世を終えた。宮廷はその後もこの地に置かれたが、民衆の暮らす都から遠く離れた宮殿は、やがて王と国民の隔たりの象徴になる。1789年10月、パンを求めてパリから行進してきた女性たちと群衆によって、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットはパリへ連れ戻された。フランス革命の始まりの年のことである。