できごと

アザンクールの戦い

Battle of Agincourt
AD1415年10月25日
重要度 5
アザンクールの戦いに関わる図版:Schlacht von Azincourt
Schlacht von Azincourt Wikimedia Commons Public domain

概要

ヘンリー5世の6000が、赤痢と雨の泥の中で、フランスの騎士2万を長弓で倒した。フランスの貴族が一日で消えた。捕虜を殺せと命じた。5年後、トロワ条約でフランス王の跡継ぎに。2年後に死んで、ジャンヌが出た。シェイクスピアの「聖クリスピアンの日」。

場所

アジャンクール
50.46°N 2.14°E · フランス

本文

1413年、イングランド王位に就いたヘンリー5世は、まだ20代の半ばだった。父ヘンリー4世は、従兄のリチャード2世から王位を奪った人で、ランカスター家の王位には正統性への疑いがつきまとっていた。ヘンリー5世は、曾祖父のエドワード3世が唱えたフランス王位の要求を持ち出した。百年戦争は、しばらく大きな戦いの無い時期が続いていた。

フランスの側は分裂していた。国王シャルル6世は心の病に苦しみ、王族のブルゴーニュ派とアルマニャック派が政権を争い、内乱に近い状態にあった。ヘンリーはその隙を突いた。1415年8月、ヘンリーは1万を超える軍を率いてノルマンディーに上陸し、セーヌ川の河口の港町アルフルールを囲んだ。

アザンクールの戦い(『セント・オールバンズ年代記』より)
アザンクールの戦い(『セント・オールバンズ年代記』より)Wikimedia Commons Unknown - Ms 6 f.243 Battle of Agincourt, 1415, English with Flemish illuminations, from the 'St. Alban's Chronicle' by · Public domain

アルフルールの包囲は予想以上に長引いた。町が降ったのは9月の終わりで、その間に軍の中で赤痢が広がり、多くの兵が死ぬか、病気で本国へ送り返された。季節は秋になっていた。ヘンリーは、残った兵を連れて、陸路で北東のカレーへ向かうと決めた。カレーはエドワード3世以来、イングランドが大陸に持つ港だった。10月8日、およそ150マイル、8日ほどの行軍のつもりで、軍は出発した。

ところが、ソンム川の渡し場はフランス軍にふさがれていた。軍は川沿いを上流へ遠回りすることを強いられ、ようやく渡ったのは10月19日だった。食料は尽きかけ、兵は飢えと病と雨に苦しんだ。10月24日、アザンクールの村の近くで、イングランド軍の行く手に、はるかに大きなフランス軍が立ちふさがった。

アザンクールの戦いに参加した両軍の旗を再現した図(1833年)
アザンクールの戦いに参加した両軍の旗を再現した図(1833年)Wikimedia Commons Internet Archive Book Images · Public domain

兵力は、イングランドが6000から9000ほどで、その大半が長弓兵だった。フランス軍は1万2000程度とする研究者もいれば、2万から3万とする見方もあり、はっきりしない。ただ、フランス側がはるかに多く、重い甲冑を着た貴族や騎士を多く揃えていたことは確かである。その夜、激しい雨が降った。

10月25日は、靴職人の守護聖人である聖クリスピンと聖クリスピニアヌスの祝日だった。戦場は、両側を森に挟まれた細長い畑で、耕されたばかりの土は前夜の雨でぬかるんでいた。ヘンリーは、弓兵たちに先を尖らせた杭を持たせており、騎兵の突撃を防ぐため、弓兵の前の地面に斜めに打ち込ませた。朝のうち、両軍はにらみ合ったまま動かなかった。待てば食料の無いイングランド軍が不利になる。ヘンリーは軍を前に進め、弓の射程にフランス軍を捉えると、杭を打ち直させて射撃を始めた。

アザンクールの戦いの朝(ジョン・ギルバート画、1884年)
アザンクールの戦いの朝(ジョン・ギルバート画、1884年)Wikimedia Commons Sir John Gilbert (1817–1897) · Public domain

矢を浴びたフランスの騎兵は突撃したが、両側の森に挟まれて広がることができず、ぬかるみに足を取られ、杭と矢の前に崩れた。傷ついた馬が暴れて引き返し、後ろから進んでくる自軍の徒歩の兵をなぎ倒した。重い甲冑の兵たちは、泥に足を取られながら狭い戦場に押し込まれ、前の者が倒れると後ろから押されて、次々に折り重なった。倒れた者の上にさらに人が倒れ、起き上がれずに窒息した者も多かったとされる。矢を射尽くした弓兵たちは、斧や槌や短剣を手に、動けなくなった騎士たちに襲いかかった。

戦いの勝敗は、おそらく数時間のうちに決まった。だが、そのあとで一つの事件が起きる。イングランド軍の後方の荷車が、地元の領主の手勢などに襲われたという知らせが入り、さらにフランス軍の後方の部隊がまた攻めてくる気配を見せた。多数の捕虜が背後で再び武器を取ることを恐れたヘンリーは、捕虜を殺せと命じた。身代金を当てにしていた騎士たちは従わず、王は弓兵に命じたと年代記は伝える。数百人とも言われる捕虜が殺された。この命令は当時の基準からも厳しいものだったが、同時代のフランスの記録でも、やむをえない判断と書かれることがあった。

アザンクールの戦いのヘンリー5世(ジョン・ギルバート画、19世紀)
アザンクールの戦いのヘンリー5世(ジョン・ギルバート画、19世紀)Wikimedia Commons John Gilbert (1817–97) · Public domain

フランスの損害は甚大だった。アランソン公、ブラバン公、バル公、ヌヴェール伯をはじめ、多くの大貴族が死んだ。死者の数は6000から1万とする見方まで幅がある。王族のオルレアン公シャルルは捕虜となり、身代金が払われないまま、25年もの間イングランドに留め置かれた。彼はその間に多くの詩を書き、のちにフランスを代表する詩人の一人に数えられる。イングランド側の死者は、王の叔父のヨーク公とサフォーク伯を含め、数百人ほどだったとされる。

ヘンリーはカレーに入り、11月にロンドンへ凱旋した。その後、ヘンリーはノルマンディーを着々と征服し、ブルゴーニュ派とも手を結んだ。1420年のトロワ条約で、ヘンリーはシャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、フランス王の後継者と認められた。フランスの王位は、目の前にあった。

シャルル7世の夜間儀式録に描かれたアザンクールの戦い
シャルル7世の夜間儀式録に描かれたアザンクールの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが1422年8月31日、ヘンリーはパリ郊外のヴァンセンヌで、赤痢とみられる病で死んだ。35歳だった。2か月後にはシャルル6世も死に、両国の王位は、生後9か月のヘンリー6世のものとされた。それに異を唱えるフランス王太子シャルルのもとに、1429年、ジャンヌ・ダルクが現れる。形勢は逆転し、1453年、戦争はフランスの勝利で終わった。イングランドの手に残ったのはカレーだけだった。

アザンクールの名を不滅にしたのは、ウィリアム・シェイクスピアだった。1599年頃に書かれた史劇『ヘンリー五世』で、王は戦いの前に兵たちに語りかける。我ら少数、幸福な少数、我ら兄弟の一団、今日私とともに血を流す者は、私の兄弟となる。この演説は、劣勢の中で戦う者を鼓舞する言葉として、イギリスで繰り返し引かれてきた。第二次世界大戦中の1944年には、ローレンス・オリヴィエが監督・主演して映画化した。

1915年の絵画に描かれたアザンクールの戦いのヘンリー5世。フランス王位主張の象徴として百合紋とイングランド王家紋を組み合わせた外衣を着ている
1915年の絵画に描かれたアザンクールの戦いのヘンリー5世。フランス王位主張の象徴として百合紋とイングランド王家紋を組み合わせた外衣を着ているWikimedia Commons Harry Payne · Public domain

長弓と泥、少数が多数を破った戦いとして、アザンクールはイングランドの国民的な記憶になった。クレシーの戦いやポワティエの戦い(1356年)と並ぶ百年戦争の大勝利だが、戦争そのものに勝ったのはフランスだった。フランス北部の小さな村には、いま、戦いを伝える博物館が建っている。

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