できごと

ドゥームズデイ・ブック

Domesday Book
AD1086年
重要度 4
ドゥームズデイ・ブックに関わる図版:Domesday-book-1804x972
Domesday-book-1804x972 Wikimedia Commons Andrews, William · Public domain

概要

征服王が、イングランドの全部の土地と家畜と人を数えさせた。「牛一頭、豚一匹も漏らさず」。1万3000の地名。ラテン語で2冊。「最後の審判の日」のように、異議を言えないから、その名がついた。いまも国立公文書館にある。

場所

ウィンチェスター
51.06°N -1.31°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ウィリアム1世AD1028年頃–AD1087年 · 命じた

本文

1066年、ノルマンディー公ギヨームはヘイスティングズの戦いに勝ってイングランドの王となった(ウィリアム1世)。それから20年近く、彼は各地の反乱を力で抑え込み、イングランドの貴族たちから土地を取り上げて、海を渡ってきたノルマンの家臣たちに分け与えていった。だが、王国のどこに、どれだけの土地があり、誰が持ち、どれほどの富を生んでいるのか、王自身も正確には知らなかった。

1085年、北の海の向こうから新たな脅威が迫った。デンマーク王クヌート4世が、かつての北海帝国(クヌートの北海帝国)を思い起こさせるように、イングランドへの侵攻を準備していたのである。ウィリアムは大陸から大勢の傭兵を呼び寄せ、その兵を各地の領主に養わせた。侵攻は結局起きなかったが、王は国の富を確かめる必要を痛感した。その年のクリスマス、グロスターで開いた会議で、王は家臣たちと長く話し合い、全国の調査を命じた。

『ドゥームズデイ・ブック』のウォリックシャーの頁
『ドゥームズデイ・ブック』のウォリックシャーの頁Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

イングランドの年代記は、この調査をこう記している。王は家来たちを国中のすべての州へ送り、それぞれの州に土地がどれだけあり、王自身が何を持ち、大司教や司教、修道院長、伯たちが何を持っているか、どれだけの値打ちがあるかを調べさせた。あまりに細かく調べたので、書くのも恥ずかしいことだが、牛一頭、豚一匹すら書き漏らされなかった、と。征服された側の書き手の、苦々しい口ぶりが伝わってくる。

調査は1086年に一気に進められた。国はいくつかの巡回区に分けられ、それぞれに、その土地に利害を持たない委員たちが送り込まれた。委員たちは、州の下の単位であるハンドレッドごとに、土地の者から選ばれた陪審を集めて質問した。陪審にはイングランド人もノルマン人も入っていた。質問は決まっていた。この荘園の名は何か。エドワード王の時代に誰が持っていたか。いまは誰が持っているか。広さはどれほどか。犂は何台あるか。農奴、小屋住み、奴隷、自由民はそれぞれ何人いるか。森や牧草地、水車、養魚池はあるか。エドワード王の時代にはどれほどの値打ちがあり、いまはどうか。水車の数まで数え上げたこの記録は、のちに中世の技術を知る手がかりにもなった(ドゥームズデイ・ブックの水車)。

『ドゥームズデイ・ブック』の『テューダー式』装丁(1860年代の木版画)
『ドゥームズデイ・ブック』の『テューダー式』装丁(1860年代の木版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その年の8月1日、王はソールズベリーにイングランドの主な土地の持ち主たちを集め、自分への忠誠を誓わせた。土地を王から直接もらった家臣だけでなく、その家臣から土地を受けた者たちまでが、王に直接に誓ったのである。調べて書き上げた土地の持ち主たちを、王の下にじかに結びつける。調査と誓いは、一組の仕事だった。秋、王はノルマンディーへ渡り、翌1087年9月、ルーアンで死んだ。記録の清書は、まだ終わっていなかった。

残された記録は二冊に分かれている。大部分の州をまとめた大きな一冊は413葉あり、ほぼ一人の書記が、略語だらけの細かいラテン語で書き上げた。もう一冊、東部のエセックス、ノーフォーク、サフォークの三州だけを収めた小さな一冊は、まとめる前の詳しい形のまま残ったもので、何人かの書記の手になる。合わせて1万3000を超える地名が載っている。ただし、ロンドンやウィンチェスターといった大きな町、そしてイングランド北部の州の多くは入っていない。

ドゥームズデイ・ブックを17〜18世紀に保管したドイツ式鉄装の木箱(1500年頃)
ドゥームズデイ・ブックを17〜18世紀に保管したドイツ式鉄装の木箱(1500年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ドゥームズデイ(最後の審判の日)という名は、記録が作られた当時のものではない。100年ほど後の1170年代、財務府の役人リチャード・フィッツナイジェルが書いた手引きの中で、イングランドの人々はこの本を最後の審判の日の書と呼んでいる、と説明されている。その裁きのように、一度書かれたことには異議も言い逃れも許されない、というたとえである。

記録の数字は、ノルマン征服が何を変えたかを冷たく示している。1086年の時点で、イングランドの土地の値打ちのおよそ17パーセントを王が、4分の1ほどを教会が持ち、半分以上を200人に満たないノルマンの貴族たちが握っていた。征服前に土地を持っていたイングランド人の大貴族は、ほとんど姿を消していた。農村に暮らす人々の中では農奴が4割ほどを占め、奴隷も1割ほどいた。記録には世帯主しか書かれていないので、当時の人口は推計するしかないが、150万から200万人ほどと考えられている。

1783年刊『ドゥームズデイ・ブック』印刷版のクロイドンとチームの記載
1783年刊『ドゥームズデイ・ブック』印刷版のクロイドンとチームの記載Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この本は長く王の財務府に保管され、土地の権利をめぐる争いが起きるたびに、証拠として持ち出された。ドゥームズデイに書いてある、と言えば、それが最後の言葉になった。20世紀になっても、古い土地の権利を確かめるために法廷で参照されたことがある。いまはロンドン郊外キューの国立公文書館に収められ、内容はインターネットで誰でも見られるようになっている。イングランドの多くの村は、自分の村の名が初めて記録に現れるのがこの本だという。

国が、その国の土地と人と富を一冊の帳面に書き上げる。古代ローマのローマのケンススにも、近代の最初の国勢調査にも通じる試みである。ドゥームズデイ・ブックは、征服者が獲物の目録を作った記録であると同時に、900年以上前の中世の社会を、村ごと、水車ごとに覗き込める、ほかに例のない窓になっている。

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