ビアフラ戦争
概要
ナイジェリア東部が分離を宣言し、3年で100万から200万が死んだ。その多くが飢餓による。飢えた子どもの写真が世界に流れ、国境なき医師団が生まれる契機になった。
場所
6.44°N 7.50°E · ナイジェリア
関わった人(1)
チヌア・アチェベAD1930年11月16日–AD2013年3月21日 · 独立側を支持した本文
ナイジェリアは、1914年にイギリスが北と南の植民地を一つにまとめて作った国である。中には250を超える民族が暮らしていた。大きなものは三つある。北のハウサ・フラニはムスリムが多く、イギリスは首長たちを通じて間接に治めた。西のヨルバ、東南のイボは、キリスト教の宣教師の学校で教育を受けた人が多く、役人や商人として国中に散らばった。1960年、ナイジェリアは独立したが(アフリカの年)、三つの地域の対立は独立の前から深かった。
1966年1月、イボ人の将校が中心の軍の一派がクーデターを起こし、首相や北部の指導者を殺した。北部の人々は、これをイボ人による支配のたくらみと受け止めた。7月には北部の将校たちが反撃のクーデターを起こし、ゴウォン中佐が国の指導者になった。その年の秋、北部の町々でイボ人を狙った殺戮が起きた。殺された人は数万人にのぼるとされる。100万人を超えるイボ人が、財産を捨てて東部へ逃げ帰った。

東部州の軍政長官オジュクは、東部の人々の安全は守られない、と訴えた。話し合いは行われたが、合意は守られなかった。1967年5月30日、オジュクは東部州の独立を宣言し、国の名をビアフラ共和国とした。東部のニジェール川の河口近くには、石油が出始めていた。ナイジェリアの政府にとって、東部を失うことは、国の未来の富を失うことでもあった。
1967年7月、戦争が始まった。初めはビアフラ軍が西へ攻め込んだが、まもなく押し返された。ナイジェリアの政府軍は、イギリスとソ連から武器を得た。ビアフラを国として認めたのは、タンザニアやガボンなどわずかな国で、フランスがひそかに武器を流したとされる。政府軍はビアフラの港を奪い、海と陸を封じた。ビアフラの領土は年ごとに狭くなり、そこに逃げてきた人々が詰め込まれた。

封鎖は食べ物の道を断った。もともとこの地域は、たんぱく質のとれる食べ物の多くを外から運び込んでいた。それが途絶えると、まず子どもたちが倒れた。たんぱく質が足りなくなって腹が膨れ、髪の色が抜ける病が広がった。1968年の夏、骨と皮ばかりになった子どもたちの写真が、世界の新聞とテレビに流れた。飢えをこれほど生々しく伝えた映像は、それまでなかった。
各国の教会の団体は、封鎖をくぐって夜の闇の中を輸送機で飛び、ビアフラの中の道路を使った滑走路に食料と薬を運んだ。撃ち落とされる危険のある飛行だった。死者の数ははっきりしないが、戦闘と飢えによって、50万から200万の人が死んだとされ、その大半は飢えと病によるものだった。

1970年1月、ビアフラの抵抗は尽きた。オジュクは国外へ逃れ、残った指導者たちが降伏した。ゴウォンは、勝者も敗者もない、と述べ、報復を戒めた。戦後、恐れられていたイボ人の大量殺戮は起きなかった。だが、銀行の預金が戦前の額にかかわらず一律の少額しか戻されないなど、東部の人々は貧しさの中から暮らしを立て直すことになった。
作家のチヌア・アチェベはイボ人で、すでに『崩れゆく絆』で世界に知られていた。戦争のあいだ、彼はビアフラの側に立ち、使節として各国を回って支援を訴えた。晩年の2012年に出した回想録で、彼はこの戦争をあらためて語っている。

この戦争は、人道の支援のあり方も変えた。赤十字国際委員会は、中立を守るため、ナイジェリア政府の許しなく活動することや、見たことを公に語ることを控えた。その方針に疑問を持ったフランスの医師たちがいた。彼らは1971年、国境や政府の許しにとらわれずに医療を届け、見た苦しみを世界に証言することを活動に含める団体を作った。国境なき医師団である(国境なき医師団)。
ナイジェリアは、その後も軍のクーデターと民政をくり返しながら、一つの国として続いている。ビアフラの独立を求める声は、いまも東部の一部に残っている。