ポーランド分割
概要
三度に分けて隣の三国が分け合い、国が地図から消えた。戻るのは123年後になる。
場所
52.23°N 21.01°E · ポーランド
本文
16世紀から17世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国は、バルト海から黒海の近くまで広がるヨーロッパ有数の大国だった(ポーランド・リトアニア共和国)。王は世襲ではなく、貴族たちの選挙で選ばれた。人口の1割近くを占める貴族(シュラフタ)は、身分の内では互いに平等とされ、王の権力を抑える「黄金の自由」を誇りにしていた。その象徴が、議会の議員がただ一人反対すれば議決を無効にでき、会期そのものを流せる「自由拒否権」である。17世紀の半ばに初めて使われてから、議会はたびたび何も決められずに終わるようになった。
18世紀に入ると、この仕組みは周りの国々に利用された。議員を一人買収すれば、改革も増税も軍の拡大も止められる。ロシアは大北方戦争以後、ポーランドの政治に深く入り込み、1764年には女帝エカチェリーナ2世が、かつての愛人スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを王位につけた。王は教養ある改革者だったが、ロシアの後ろ盾なしには王位を保てなかった。ロシアの干渉に反発した貴族たちが1768年に武器を取ると、国内は4年にわたる内戦に陥った。

1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアの三国は、ポーランドの領土の一部をそれぞれ取り上げる条約を結んだ。第一次分割である。ポーランドは国土の約3割、人口の3分の1あまりを失った。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、領土の東西に分かれていた自国をつなぐ土地を手に入れた。オーストリアのマリア・テレジアは分割に加わることをためらい、涙を流しながら取っていった、とフリードリヒは皮肉ったと伝えられる。戦争に負けたわけでもない国が、隣国の合意によって削られたのである。
衝撃を受けたポーランドでは、改革の動きが強まった。1773年には、ヨーロッパで最初の国の教育省ともいわれる国民教育委員会が作られ、学校が整えられた。1788年から開かれた議会は4年に及び、1791年5月3日、新しい憲法を採択した。自由拒否権と王の選挙を廃止し、立法・行政・司法の権力を分け、町の住民に政治の権利を一部認め、農民を法の保護の下に置く。成文の近代憲法としては、アメリカ合衆国憲法に次いで世界で2番目、ヨーロッパでは最初のものとされる。

だが、ポーランドが強くなることを、周りの国々は望まなかった。憲法に反対する一部の大貴族がロシアと結び、1792年、ロシア軍が攻め込んだ。ポーランド軍は善戦したが、王は抵抗をあきらめ、反対派に加わった。翌1793年、ロシアとプロイセンが再び領土を分け取った。第二次分割である。残されたポーランドは、もとの3分の1ほどの、自立できない小国になった。
1794年、アメリカ独立戦争でも戦った軍人コシチュシュコが、クラクフで蜂起を宣言した。大鎌を手にした農民の部隊がロシア軍を破るなど、蜂起は一時ワルシャワまで広がったが、ロシアとプロイセンの大軍の前に敗れた。ワルシャワ対岸のプラガ地区では、ロシア軍が住民を大量に殺害した。1795年、三国は残りの土地をすべて分け合った。第三次分割である。王は退位し、ポーランドという国は地図から消えた。
それから123年、ポーランドの人びとは国を持たないまま、言葉と信仰と記憶を守り続けた。1797年、イタリアでナポレオン軍に加わったポーランド人部隊は「ポーランドいまだ滅びず」と歌い、この歌はのちに国歌となる。ナポレオン・ボナパルトが作ったワルシャワ公国に望みをかけた時期もあったが、ナポレオンの没落とともに消えた。ロシア領では1830年と1863年に大きな蜂起が起き、いずれも鎮圧された。故郷を離れたフレデリック・ショパンは、パリでポーランドの舞曲を作り続けた。
支配する国々は、学校でポーランド語を使わせないなど、言葉と文化を抑えつけようとした。プロイセン領では、ドイツ語での宗教の授業を拒む子どもたちの学校ストライキが起きている。ロシア領では、禁じられた授業を家々を転々としながら行う秘密の学びの場が生まれた。国が消えたあいだ、ポーランド語と歴史を子どもに伝えたのは、家庭と教会、そしてこうした地下の学校だったとされる。

1918年11月、第一次世界大戦で三国がともに敗れ、あるいは崩れたことで、ポーランドは独立を回復した。しかしその独立は、わずか21年後、ドイツとソ連の侵攻によって再び奪われることになる。隣国の合意で国が消され得るという経験は、いまもポーランドの人びとの歴史の記憶の芯にある。