ヴァレンシュタイン
概要
ボヘミアのプロテスタントの小貴族。カトリックに改宗し、富裕な寡婦と結婚し、白山のあと没収されたボヘミアの土地を安く買い集め、フリートラント公。1625年、皇帝に自分の金で軍を提供した。「戦争が戦争を養う」。5万、10万。デッサウ、シュトラールズント(失敗)、メクレンブルク公。1630年、諸侯が恐れて解任。グスタフ・アドルフが来て、呼び戻された。リュッツェン。1634年、エゲル。ケプラーに星占いを頼んだ。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(2)
三十年戦争1618年 · 皇帝の将軍ヴァレンシュタインの暗殺AD1634年2月25日 · 刺された本文
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、1583年9月24日、ボヘミアの東部の村ヘルマニツェに生まれた。チェコ語の名はヴァルトシュテイン。家は古い貴族の家柄だったが、領地は小さく、両親はプロテスタントの一派、ボヘミア兄弟団の信徒だった。10歳になる前に母を、12歳で父を亡くし、叔父のもとで育てられた。ドイツのルター派の学校に学び、ニュルンベルクの近くのアルトドルフの大学に進んだが、乱暴な振る舞いで騒ぎを起こし、長くはいなかった。その後、イタリアを旅し、パドヴァなどで学問に触れた。星の動きで人の運命を読む占星術への強い関心は、このころに芽生えたとされる。

若いころ、彼はカトリックに改宗した。ボヘミアの王はハプスブルク家の皇帝が兼ねていて、宮廷で出世するにはカトリックであることが有利だった。信仰の転向が、心からのものか、計算によるものかは分からない。1609年、彼はモラヴィアの富裕な年上の寡婦ルクレツィエと結婚し、5年後に妻が亡くなると、その広い領地を受け継いだ。1617年、ハプスブルク家がヴェネツィアと戦ったときには、自分の金で騎兵を集めて大公フェルディナント、のちの皇帝フェルディナント2世のもとに駆けつけた。私財を投じて兵を出し、主君に恩を売る。これが彼の生涯のやり方になる。
1618年、ボヘミアのプロテスタントの貴族たちは、皇帝の役人をプラハの城の窓から投げ落として反乱を起こした。三十年戦争の始まりである。モラヴィアの連隊を率いていたヴァレンシュタインは、反乱に加わらず、連隊の金庫を持ち出して皇帝の側に走った。1620年、プラハの郊外の白山の戦いで反乱軍は敗れ、反乱に加わった貴族たちの土地が没収された。ボヘミアの土地のおよそ半分が持ち主を変えたといわれる。ヴァレンシュタインは、この没収地を、皇帝に近い者たちと組んで質を落とした貨幣で安く買い集め、ボヘミアの北東部に広大な領地を作り上げた。1623年には公の位を得て、フリートラント公となった。同じ年、皇帝の側近の家の娘イザベラと再婚している。

彼は自分の領地を、一つの国のように経営した。農場や工房、鉄の鋳造所を整え、町イチーンに宮殿と学校を建て、領地から上がる穀物や布、武器を、自分の軍のための物資として計画的に作らせた。プラハの城の下にも、二十を超える家を取り壊させて、壮大な宮殿と庭園を建てた。この宮殿は、いまチェコの上院の建物になっている。
1625年、デンマーク王クリスチャン4世が、プロテスタントの側に立って戦争に加わった。皇帝フェルディナント2世には、自分の軍隊がほとんど無かった。頼りにしていたのは、バイエルン公マクシミリアンの率いるカトリック連盟の軍と、その将軍ティリーだった。そこへヴァレンシュタインが申し出た。自分が皇帝のために軍を集める。その費用は、自分が立て替え、軍が進む土地から取る。戦争は戦争を養う、という古い格言は、彼のやり方を表す言葉として語られるようになる。彼は占領した土地の町や領主に「軍税」を課し、その金で兵に給料を払い、食べ物と武器を買った。略奪に任せるより、取り立てを組織にしたのである。軍はみるみる膨らみ、2万から5万、やがて10万を超える数になった。

1626年、ヴァレンシュタインはエルベ川のデッサウの橋で、プロテスタントの傭兵隊長マンスフェルトを破った。ティリーと協力してデンマークの軍を追い、北ドイツを抑え、ユトランド半島まで攻め入った。皇帝は、デンマーク王に味方したメクレンブルクの公を追い、その領地をヴァレンシュタインに与えた。ボヘミアの小貴族の出の男が、帝国の公の一人になったのである。彼は「大洋とバルト海の将軍」の称号も得て、バルト海に皇帝の艦隊を作ろうとした。だが1628年、バルト海の港町シュトラールズントの包囲は失敗に終わった。たとえ鎖で天に結ばれていても取ってみせる、と豪語したと伝えられるが、海からデンマークとスウェーデンの援軍が町を支えた。1629年、デンマークは和を結んで戦争から降りた。
勝てば勝つほど、敵は増えた。ドイツの諸侯たちは、新参の成り上がりが巨大な軍を握り、自分たちの領地からも税を取り立てることに怒り、また皇帝がその軍で帝国を一手に支配することを恐れた。1630年、レーゲンスブルクに集まった選帝侯たちは、皇帝が息子を後継ぎに選ばせたいと望んでいるのにつけ込み、ヴァレンシュタインを辞めさせるよう迫った。皇帝は折れ、8月、彼を解任した。ヴァレンシュタインは、意外なほど静かにこれを受け入れ、自分の領地に戻った。

ちょうどそのころ、スウェーデン王グスタフ2世アドルフがドイツの北の海岸に上陸していた。1631年、ブライテンフェルトの戦いでティリーの軍はスウェーデン軍に粉砕され、スウェーデンと結んだザクセンの軍はプラハにまで入った。追いつめられた皇帝は、ヴァレンシュタインを呼び戻すしかなかった。1632年、彼は大きな権限を認めさせて再び総司令官となり、わずか数か月で新しい大軍を集めた。プラハからザクセン軍を追い出し、ニュルンベルクの近くの陣地でグスタフ・アドルフの攻撃を退けた。11月16日、ライプツィヒの近くで両軍がぶつかった(リュッツェンの戦い)。霧の中の激戦でグスタフ・アドルフは戦死したが、ヴァレンシュタインも多くの兵と将軍パッペンハイムを失い、夜のうちに戦場から退いた。
1633年、ヴァレンシュタインはほとんど戦わなかった。そのかわりに、スウェーデンやザクセン、フランスと、ひそかに交渉を重ねた。帝国に和平をもたらそうとしたのか、皇帝を見限って自分がボヘミアの王になろうとしたのか、その本当の狙いはいまも分からない。ウィーンの宮廷では、彼が裏切ろうとしているという疑いが広がった。1634年1月、皇帝はひそかに彼を解任する命令を出し、2月には反逆者として公にした。

部下の多くが離れていくなか、ヴァレンシュタインは、わずかな兵とともにボヘミアの西の町エーガー(ヘプ)へ向かった。スウェーデン軍と合流しようとしたとも言われる。1634年2月25日の夜、まず側近の将校たちが宴の席で殺された。続いて、皇帝に忠実なアイルランド人やスコットランド人の将校たちが、病で床にあったヴァレンシュタインの部屋に踏み込み、槍で刺し殺した。50歳だった。暗殺に加わった者たちには、彼の没収された領地が分け与えられた。
ヴァレンシュタインは、痛風に苦しみ、気難しく、物音を極端に嫌ったと伝えられる。宿の周りでは、犬の吠える声や鶏の鳴き声を立てさせないよう命じたという話も残る。星の運行を深く信じ、若いころ、天文学者ヨハネス・ケプラーに自分の運勢を占う天宮図を作らせていた。ケプラーは晩年、彼の領地に招かれて仕え、1630年にレーゲンスブルクで亡くなった。
傭兵の軍を、取り立ての仕組みで養い、一人の企業家のように戦争を経営した男。その姿は、ドイツの詩人フリードリヒ・シラーの三部作の劇『ヴァレンシュタイン』によって、野心と運命に翻弄される悲劇の英雄として描かれた。彼が死んでからも戦争は14年続き、1648年のウェストファリア条約でようやく終わる。軍を自分の金で集める傭兵隊長の時代も、そのころから、国家が税で常備の軍を持つ時代へと移っていった。