できごと

ベンサムのパノプティコン

Panopticon
AD1791年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマーク=ノルウェーネーデルラント連邦共和国スウェーデンオーストリア帝国ポーランド神聖ローマ帝国スペインフランス王国ポーランド・リトアニア共和国モロッコAlgiersイギリスプロイセンバイエルンアイルランド王国両シチリア王国Tunisヴェネツィア共和国TripolitaniaMecklenburg-Strelitzサルデーニャ王国CyrenaicaザクセンAD1791年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1791年の版図を描いています(28勢力)。

概要

円形の監獄。中央の塔から全部の独房が見え、囚人からは塔の中が見えない。見られているかもしれない、という意識が囚人を規律する。ベンサムは20年、政府に建てさせようとして、金を失った。建たなかった。フーコーが1975年に「近代の権力の図式」として掘り出した。「最大多数の最大幸福」の人が考えた、最も効率のよい監視。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ジェレミー・ベンサムAD1748年2月15日–AD1832年6月6日 · 設計した

本文

18世紀の終わりのイギリスの監獄は、暗く、不潔で、乱れていた。囚人は老いも若きも、重い罪も軽い罪も一緒くたに押し込められ、看守は囚人から金を取って食事や寝床を売った。伝染病が広がり、刑期を終える前に死ぬ者も多かった。罪を償わせるはずの場所が、悪事を覚える学校になっている。刑罰を理性で組み立て直せと説く議論(ベッカリーア『犯罪と刑罰』)も広まり、改革を唱える声は高まっていたが、どう造り替えればよいのかは誰にも分からなかった。

法律家で哲学者のジェレミー・ベンサムが答えを思いついたのは、ロシアでのことだった。1786年、彼は弟のサミュエルを訪ねて、いまのベラルーシにあたるクリチェフの地にいた。サミュエルはロシアの権力者ポチョムキン公の領地で工場を任され、イギリスから連れて来た職人とロシアの農民を働かせていた。サミュエルは、円い建物の中心に監督の部屋を置いて、周りの作業場を一度に見渡す、という仕組みを考えていた。兄のジェレミーは、それを監獄に使えると考えた。

パノプティコン型刑務所の例。旧プレシディオ・モデーロ(キューバ)
パノプティコン型刑務所の例。旧プレシディオ・モデーロ(キューバ)Wikimedia Commons Friman · Public domain

ベンサムは1787年、その構想を手紙の形で書き、1791年に本として出した。名づけて「パノプティコン」、ギリシア語で「すべてを見る」という意味である。建物は円形で、外周に独房が何層にも並ぶ。独房は外側に窓があり、内側は格子で、中心の塔に向かって開いている。光は外から差し込むので、塔からは独房の中の囚人の姿が影絵のように見える。一方、塔の窓には鎧戸や仕切りがあり、囚人の側からは塔の中が見えない。

仕掛けの肝は、ここにある。囚人には、監督がいま自分を見ているのかどうかが分からない。いつ見られていてもおかしくない。そう思えば、囚人は見られていなくても、見られているかのようにふるまう。監視は、やがて囚人の頭の中に移り、囚人は自分で自分を見張るようになる。監督は少人数でよく、実際には塔が空でもかまわない。ベンサムはこれを、心が心を支配する新しい方法だと書いた。

ミルバンク監獄の平面図
ミルバンク監獄の平面図Wikimedia Commons G.P. Holford · Public domain

ベンサムの期待は大きかった。本の序文で彼は、道徳は改まり、健康は守られ、産業は活気づき、教育は広まり、公の負担は軽くなり、救貧法の難問もほどける、それもすべて建築の単純な一つの考えによって、と書いている。彼はこの図式を、監獄だけでなく、工場、救貧院、病院、学校にも当てはめられると考えた。のちには、国中の貧民を同じ形の施設に収容する計画まで書いている。

ベンサムは、ただ設計図を描くだけでなく、自分で監獄を建てて経営するつもりだった。国から囚人を預かり、囚人を働かせて利益を上げ、その一部を国に還す。囚人の死亡率が一定を超えたら罰金を払う、という条件まで自ら提案した。1794年、議会はこの計画を進める法を通し、テムズ川沿いのミルバンクに用地が手当てされた。だが話は進まなかった。近くに屋敷を持つ貴族は監獄が来ることを嫌い、国王ジョージ3世も乗り気でなかったとされ、政府は約束を引き延ばし続けた。ベンサムは20年近く、書き、請願し、私財を注ぎ込んだ。1813年、政府はおよそ2万3000ポンドを補償として払い、計画を打ち切った。

シンガポール・アウトラムに計画された監獄の設計図(1880年代)
シンガポール・アウトラムに計画された監獄の設計図(1880年代)Wikimedia Commons John Frederick Adolphus McNair (23 October 1828 – 17 May 1910); photograph by jiattison from Singapore. · Public domain

ミルバンクには1816年、別の設計の大きな監獄が建てられた。ベンサムの考えたパノプティコンそのものは、イギリスでは一つも建たなかった。ただ中心から見渡すという発想は、19世紀以降の監獄の設計に影響を与え、円形の監獄はオランダの都市や、アメリカのイリノイ州、キューバの島などに建てられた。キューバのものには、のちに若き日のフィデル・カストロが収監されている。

ベンサムの名を思い出させたのは、20世紀のフランスの哲学者フーコーだった。1975年の『監獄の誕生』(フーコー『監獄の誕生』)で、彼はパノプティコンを近代の権力の図式として取り上げた。かつての権力は、罪人の体を公衆の前で引き裂いて、王の力を見せつけた。近代の権力は違う。人を見えるところに置き、記録し、分類し、正しい型へ直していく。学校の教室も、兵舎も、工場も、病院も、同じ図式で動いている、とフーコーは論じた。いまでは街中の監視カメラやネット上の行動の記録を語るときにも、パノプティコンの名がしばしば持ち出される。

ベンサムの労役場構想「インダストリー・ハウス」の図(1812年、2000人収容)
ベンサムの労役場構想「インダストリー・ハウス」の図(1812年、2000人収容)Wikimedia Commons Jeremy Bentham · Public domain

ただ、ベンサム自身が描いた姿は、もう少し複雑である。彼にとってパノプティコンは、鎖と闇と鞭と伝染病の代わりに、光と労働と清潔を囚人に与える人道的な改革だった。さらに彼は、誰でも塔に入って、囚人だけでなく看守の仕事ぶりも見られるようにせよ、と書いている。見張る者もまた見張られる。そこまで含めて考えたのが、「最大多数の最大幸福」を唱えた人の設計だった。見ることで人を良くできる、という信念の明るさと、その信念が生む息苦しさの両方を、この建たなかった建物は抱えている。

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