できごと

徴姉妹の蜂起

Trưng sisters
AD40年
重要度 3
匈奴サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国サータヴァーハナ朝カリンガ高句麗アイヌ新羅シンハラAD40年紅河デルタ(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD40年の版図を描いています(10勢力)。

概要

後漢の支配に対して姉妹が立ち、65の城が呼応した。3年だけ自立し、鎮圧されて処刑された。ベトナムで最初の抵抗として記憶されている。

場所

紅河デルタ位置は特定されていない(誤差 ±km)
20.90°N 106.20°E · ベトナム北部

関わった人(1)

徴姉妹?–AD43年 · 蜂起

本文

紀元前111年、漢の武帝は南越国を滅ぼし、いまのベトナム北部の紅河の平野に交趾、九真、日南などの郡を置いた。とはいえ、はじめのうち漢の支配は緩やかで、土地の首長たちが従来どおり民を治め、漢の役人は貢ぎ物を受け取るのが中心だった。

1世紀に入ると、事情が変わる。漢の側から赴任する太守が、中国風の法や習俗を押しつけ、税を厳しく取り立てるようになった。後漢を建てた光武帝の時代、交趾の太守となった蘇定は、その強硬な統治で恨みを買った。

徴姉妹を描いたドンホー版画
徴姉妹を描いたドンホー版画Wikimedia Commons own photo · Public domain

紀元40年、交趾の麊冷の首長の娘、徴側(チュン・チャク)と、その妹の徴弐(チュン・ニ)が兵を挙げた(徴姉妹)。後世のベトナムの史書は、太守が徴側の夫の詩索(ティ・サック)を殺したことを、蜂起のきっかけとして語る。中国側の『後漢書』は、太守が法で厳しく縛ったため、勇猛な徴側が怒って背いた、と書く。夫が殺されたかどうかは、史料によって違う。

蜂起は燎原の火のように広がった。九真、日南、合浦の人々もこれに応じ、『後漢書』は、徴側が65の城を落として自ら王を名乗った、と記している。太守の蘇定は逃げ帰った。徴側は麊冷を都として女王となり、姉妹は3年近く、この地を漢から自立させた。

スイティエン公園のハイ・バ・チュン像
スイティエン公園のハイ・バ・チュン像Wikimedia Commons TDA at Vietnamese Wikipedia · Public domain

ベトナムの伝承は、姉妹のもとで多くの女性が軍を率いたと語る。身ごもったまま戦場に立ち、戦いのさなかに子を産んで、なお戦い続けた女将軍の話も伝わる。どこまで史実かは確かめようがないが、当時のこの地域では、女性が家や土地を受け継ぎ、人々を率いることが珍しくなかったのではないかと考える研究者もいる。

後漢の光武帝は、42年、老将の馬援を伏波将軍として送った。馬援はこのとき50代の半ばを過ぎていたが、南方の遠征を自ら願い出ていた。1万から2万ほどの兵を率い、船団を連ねて海岸沿いに進み、山を切り開いて道を作りながら南下した。

徴姉妹を描いた絵
徴姉妹を描いた絵Wikimedia Commons Public domain

43年、浪泊での戦いで姉妹の軍は敗れた。『後漢書』は、馬援が徴側と徴弐を斬り、その首を都の洛陽へ送ったと書く。ベトナムの伝承では、姉妹は敵の手に落ちることを拒んで、川に身を投げたとされる。

馬援はそのあと、土地の法と漢の法の食い違いを整理し、城を築き、水路を引いた。境に銅の柱を立て、「銅の柱が折れれば交趾は滅びる」と刻んだという話も伝わるが、これは後の時代の書物に見えるもので、柱がどこにあったのかも分かっていない。馬援が南方から、薬として食べていたハトムギの実を車に積んで持ち帰ったところ、真珠を隠し持って帰ったと陰口をたたかれた、という逸話も残る。

Lichsuvietnammoi
Wikimedia Commons Lachy70 · Public domain

蜂起の鎮圧のあと、漢の支配は首長たちを通じた緩やかなものから、郡県の役人による直接の支配へと強まっていった。中国の王朝による支配は、938年に呉権が白藤江で南漢の軍を破るまで、900年近く続く。

徴姉妹の蜂起は、のちの時代のベトナムの抵抗と違って、国の名も制度も残さなかった。それでも、徴姉妹の記憶は消えなかった。15世紀に編まれた『大越史記全書』は、姉妹を中国の支配に抗った最初の君主として扱い、徴王の名で記している。ベトナムで最初に中国の支配に立ち向かった人々として、二人はのちのベトナムの史書で大きく扱われ、各地に二人を祀る祠が建てられた。ハノイには、姉妹を祀る二婆祠(ハイ・バー・チュン祠)がある。象に乗って剣をかざす二人の姿は、絵や像になって各地にあり、ハノイには二人の名を冠した区もある。通りの名にも学校の名にもなっている。

VietNamToanCanhDuDo
Wikimedia Commons Hoàng Hữu Xứng (1831-1905) · Public domain

20世紀のフランスからの独立や、アメリカとの戦争のなかでも、徴姉妹は外からの支配に抗う象徴として語られた(ベトナム民主共和国の独立宣言)。のちの黎朝の大越を開いた黎利や、白藤江の戦い(元寇撃退)で元軍を退けた陳興道とともに、ベトナムの人々が繰り返し呼び起こしてきた抵抗の記憶の、最も古い一つになる。

同じ時代のできごと

赤眉と緑林の乱AD23年後漢の成立AD25年ステファノの殉教AD34年頃イエスの処刑AD30年頃セイヤヌスの失脚AD31年10月18日金官伽耶の建国(伝承)AD42年(伝承)クラウディウスのブリタニア征服AD43年パウロの伝道旅行AD47年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD40年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →