アラムートのニザール派
概要
ハサン・サッバーフがエルブルズの岩の城を取った。「鷲の巣」。ファーティマ朝のカリフの後継争いで兄ニザールの側に立ち、独自の教団に。フィダーイーが宰相ニザームルムルクを刺した。「アサシン」。35年、城を出なかった。1256年、モンゴルが落とした。
場所
36.44°N 50.59°E · イラン
関わった人(1)
ハサン・サッバーフAD1050年頃–AD1124年 · 城を取った本文
1090年、イラン北部のエルブルズ山脈の奥、カズヴィーンの北の険しい谷にそびえる岩山の城アラムートが、一人の宣教師の手に落ちた。男の名はハサン・サッバーフ。イスラームのシーア派の一派、イスマーイール派の宣教師だった。アラムートはペルシア語で「鷲の巣」を意味するとも言われる。ハサンはこの城を拠点に、のちにニザール派と呼ばれる独自の教団を築き、イランとシリアの山々に城塞の連なる小さな国家を作り上げた。ヨーロッパではこの教団を「アサシン」と呼び、その名は「暗殺者」を意味する言葉として残った。
ハサンは11世紀の半ば、イランの宗教都市コムの近くで、シーア派の多数派である十二イマーム派の家に生まれた。若いころ、テヘランの南にあったレイの町でイスマーイール派の宣教師と出会い、その教えに引かれて改宗した。イスマーイール派は、預言者の血を引くイマームの導きこそが真理への道だと説く一派で、その指導者は、エジプトのカイロでカリフを名乗るファーティマ朝の君主だった(ファーティマ朝の成立)。ハサンは1078年ごろカイロへ赴き、3年ほど学んだのち、ペルシアに戻って布教を始めた。

当時のイランを支配していたのは、スンナ派のトルコ人の王朝、セルジューク朝だった。その実権を握っていたのは、ペルシア人の大宰相ニザームルムルクである。ニザームルムルクは各地にスンナ派の学院を建て、イスマーイール派を厳しく取り締まっていた。ハサンは、セルジューク朝の軍の届きにくい山岳地帯に目をつけ、デイラム地方の山々で信徒を増やしていった。
アラムートの城は、地元の領主が預かっていた。ハサンはまず城の守備兵や周辺の住民を少しずつ改宗させ、自らもひそかに城の中に入り込んだ。1090年9月、城は戦うことなくハサンのものになった。城主に3000ディナールの手形を渡して立ち退かせたと伝えられる。武力ではなく、信徒の浸透によって城を手に入れたのである。

1094年、カイロでファーティマ朝のカリフ、ムスタンスィルが死んだ。長男のニザールが後を継ぐはずだったが、実権を握る大臣が弟のムスタアリーを立て、ニザールは反乱を起こして敗れ、獄中で死んだ。イラン各地のイスマーイール派はカイロの決定を認めず、ニザールこそ正統のイマームだとした。ハサンはこの立場の指導者となり、カイロとの縁を切った。ここから、この教団をニザール派と呼ぶ。
ハサンはアラムートに入ってから、1124年に死ぬまで30年あまり、一度も城を出なかったと伝えられる。モンゴル時代の歴史家ジュワイニーによれば、自分の住まいからもほとんど出ず、屋根に上ったのも2度だけだった。彼は城の中で書物を読み、教義を書き、各地の信徒に指示を送った。規律は厳しく、城の中で酒を飲むことも楽器を奏でることも許されなかった。自分の息子2人も、一人は殺人の疑い、一人は飲酒を理由に処刑したという。彼の教えの柱は、人は理性だけでは真理にたどり着けず、正しいイマームの権威ある教えに従わなければならない、というものだった。

小さな教団が、巨大なセルジューク朝に対抗するために用いた手段が、要人の暗殺だった。1092年10月、ニザームルムルクは旅の途中、イラン西部で、スーフィー(イスラーム神秘主義の修行者)の身なりをした男に刺されて死んだ。ニザール派の仕業とされる最初の著名な暗殺である。ただし、この暗殺には、セルジューク朝の宮廷内の対立が絡んでいたとする見方もある。教団のために命を捧げる者たちは、フィダーイー(自らを捧げる者)と呼ばれた。彼らは標的の側近や召使いとして何年も仕え、機会が来ると短刀で刺した。逃げることはほとんど考えず、その場で殺されることを覚悟していた。標的は、スルタンの重臣、町の裁判官、敵対する宗教指導者、そしてのちには十字軍の諸侯にまで及んだ。
12世紀、ニザール派はシリアの山地にも城を持った。そこの指導者は「山の老人」と呼ばれ、十字軍の呼びかけから始まった十字軍の国々や、サラディンとも、時に戦い、時に手を結んだ。サラディンは二度、命を狙われたと伝えられる。1192年には、エルサレム王に選ばれたばかりのモンフェラート侯コンラートが、ティルスの町で二人の刺客に刺された。

「アサシン」という言葉は、アラビア語の「ハシーシーユーン」に由来するとされる。大麻(ハシシ)を吸う者、という意味の蔑称で、敵対する人々が、無頼の輩という意味でニザール派を呼んだ言葉だった。十字軍の人々がこの呼び名をヨーロッパへ持ち帰り、やがて「暗殺者」を意味する普通の言葉になった。マルコ・ポーロは、山の老人が若者を薬で眠らせ、美しい楽園の庭で目覚めさせて、殺しに行けばまた楽園に戻れると信じ込ませた、という話を書き残した。しかしこの話は、ニザール派自身の記録には一切現れず、敵の噂と旅人の伝聞が重なってできた伝説と考えられている。フィダーイーが大麻を使ったという確かな証拠もない。
教団の国家は、160年あまり続いた。1256年、モンゴル帝国の皇族フレグが大軍を率いてイランに入った(モンゴル帝国の拡大)。ニザール派の最後のイマーム、ルクヌッディーン・フルシャーは、抵抗をあきらめて降伏し、各地の城に開城を命じた。その年の暮れ、アラムートも明け渡された。フルシャーは翌年、モンゴルの手で殺された。城はモンゴル軍によって壊された。
フレグに従っていた歴史家ジュワイニーは、アラムートの名高い図書館を調べることを許された。彼はクルアーンや天文の器具、価値のある書物を選び出し、ニザール派の教義の書物は焼いた。ジュワイニーが書いた歴史書は、ハサンの生涯を伝える最も重要な史料の一つになっている。教団を滅ぼした側の人間の筆によって、教団の歴史が残されたことになる。フレグの軍はその2年後、アッバース朝のバグダードを落とす(バグダードの陥落)。

ニザール派そのものは滅びなかった。信徒たちは各地に散り、教えを守り続けた。19世紀には、そのイマームの家系の当主がペルシアの王から「アーガー・ハーン」の称号を受け、のちにインドへ移った。いまもニザール派の信徒は世界各地に暮らし、アーガー・ハーンは教育や医療の慈善事業で知られている。暗殺者の教団という伝説の陰で、学問と信仰の共同体としての歴史が続いてきた。アラムートの岩山には、いまも崩れた城壁の跡が残っている。