グレート・トレック
概要
イギリスがケープを取り(1806年)、英語を公用語にし、1834年に奴隷制を廃止した。オランダ系の農民(ボーア人)1万5000人が、牛車で内陸へ移った。ドラケンスバーグを越えて、ズールー王ディンガーンと衝突し、1838年のブラッド・リバーで、円陣を組んだ470人が数千のズールー兵を銃で撃った。川が赤くなった。オレンジ自由国とトランスヴァール。アパルトヘイトの神話の一つになった。
場所
-33.92°N 18.42°E · 南アフリカ
本文
南アフリカの南端、ケープの地にヨーロッパ人の拠点ができたのは1652年である(ケープ植民地の設置)。オランダ東インド会社が、アジアへ向かう船に水と食料を補給するために置いた。やがて会社の雇い人をやめて自分の農場を持つ人々が現れ、18世紀には、牛と羊を連れて内陸へ広がっていった。彼らはボーア人(オランダ語で農民)と呼ばれた。聖書と銃と牛車を携え、先住のコイコイやサンの人々を追い、その多くを使用人や奴隷として働かせた。
18世紀の末から、ケープの主はイギリスに変わる。フランス革命戦争とナポレオン戦争のさなかの1795年と1806年に、イギリスがケープを占領し、そのまま植民地とした。1820年にはイギリスからの入植者を大量に送り込み、1820年代には裁判や役所で使う言葉を英語に改めた。1828年には、コイコイなどの自由な有色の人々に白人と同じ法の上の地位を認め、移動を縛っていた通行証の制度を廃止した。

決定的だったのは奴隷制の廃止である。1834年12月1日、大英帝国の奴隷制廃止法がケープでも施行された。解放された奴隷は数年の徒弟期間を経て自由の身になり、持ち主には補償金が出たが、その額は奴隷の値打ちよりずっと低く、しかもロンドンで受け取る手続きが必要だった。同じ時期、東の境界ではコサの人々との戦争が起き、ボーア人の農民は、植民地政府が自分たちを十分に守らず、奪われた土地や家畜も取り戻してくれないと感じていた。
1835年ごろから、ボーア人の家族が牛車を連ねて植民地の境を越え、北と東の内陸へ向かい始めた。1840年代半ばまでに、およそ1万5000人が旅立ったとされる。彼らはのちにフォールトレッカー(先を行く者)と呼ばれた。指導者の一人ピート・レティーフの縁者の女性アンナ・ステーンカンプは、のちに回想の中で、自分たちが去ったのは奴隷の解放そのものよりも、彼らがキリスト教徒と同等に扱われたことが神の定めに反すると考えたからだ、という趣旨のことを書いている。移住の動機には、イギリスの支配への反発とともに、人種の上下を守りたいという意識がはっきりとあった。
北へ向かった人々は、オレンジ川を渡って内陸の高原に入った。そこは、少し前のムフェカネの混乱を経た土地で、ムジリカジの率いるンデベレの勢力が強かった。1836年、トレッカーはフェフコップで、牛車を円形に並べた陣(ラーガー)にこもってンデベレの攻撃を退け、翌年には反撃して彼らを北へ追った。

別の一団は、ドラケンスバーグ山脈を牛車で越え、東の海に面したナタールへ下った。そこはシャカ・ズールーの後を継いだディンガーンが治めるズールー王国の勃興の土地だった。1838年2月、レティーフらは土地の譲り渡しを求めてディンガーンの王宮を訪れ、交渉の後、武器を置いたところを捕らえられて殺された。続いてズールーの軍勢がナタールの宿営地を襲い、女性や子どもを含む数百人のトレッカーと、彼らに従っていた使用人たちが死んだ。その地はのちにウィーネン(泣く場所)と名づけられた。
1838年12月16日、アンドリース・プレトリウスの率いるおよそ470人のトレッカーが、ンコメ川のほとりで64台の牛車を円形に並べ、ズールーの大軍を迎え撃った。ズールー側は1万から1万5000人とされる。トレッカーは銃と2門の小さな大砲で撃ち続け、ズールー側は3000人ほどが死んだとされるが、トレッカー側は負傷者が数人出ただけだった。川が血で赤く染まったとして、この戦いはブラッド・リバー(血の川)の戦いと呼ばれる。

戦いの前、トレッカーたちは、勝利を与えられたならこの日を神に捧げて永遠に記念する、と誓ったと伝えられる。この誓いは、のちにアフリカーナー(ボーア人の子孫)の民族の物語の中心に据えられた。12月16日は「誓いの日」として祝われ、1938年の百周年には、牛車を連ねて記念の旅をなぞる催しが国中を沸かせた。この熱狂は、10年後の1948年に人種隔離政策(アパルトヘイト)を掲げる国民党が政権を握る下地の一つになったとされる。1949年に完成したプレトリアのフォールトレッカー記念堂は、毎年12月16日の正午、天井の穴から差す日の光が、床下の記念の石を照らすように造られている。
トレッカーたちはナタールに共和国を作ったが、1843年にイギリスに併合された。内陸の人々は、1850年代にトランスヴァール(南アフリカ共和国)とオレンジ自由国という二つの共和国を打ち立て、イギリスにも独立を認めさせた。しかし1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかると、イギリスはこの地を再び狙うようになり、やがてボーア戦争に至る。

グレート・トレックは、長いあいだ、勇敢な開拓者が荒野を切り開いた物語として語られてきた。しかし彼らが入った土地の多くには、すでに人々が住んでいた。アフリカの人々から見れば、それは土地を奪う武装した移住だった。アパルトヘイトの終結を経て、1995年から12月16日は「和解の日」となった。日付はそのまま残し、意味を変えたのである。同じ一日を、征服の記念から、共に生きるための記念へ。南アフリカは、歴史を消すのではなく読み替えることを選んだ。