オリヴァー・クロムウェル
概要
議会軍を率いて王を処刑し、共和政の護国卿になった。その統治もまた独裁と呼ばれる。
関わったできごと(2)
清教徒革命と国王処刑1642年 · 議会側チャールズ1世の処刑AD1649年1月30日 · 署名した本文
オリヴァー・クロムウェルは1599年4月、イングランド東部の町ハンティンドンに、ジェントリと呼ばれる地方の地主の家の子として生まれた。一族の祖先は、ヘンリー8世の重臣トマス・クロムウェルの姉の家系にあたり、修道院の解散で没収された土地を得て豊かになった家だった。ただし、オリヴァーの父は分家で、財産は多くなかった。ケンブリッジ大学に学んだが、父の死で1年ほどで故郷へ戻った。

1628年、クロムウェルは地元から下院議員に選ばれたが、国王チャールズ1世はまもなく議会を解散し、以後11年にわたって議会を開かずに国を治めた(チャールズ1世)。1630年ごろ、クロムウェルは町の争いに巻き込まれて財産の多くを手放し、近くの町で畑を借りて暮らすまでに落ちぶれた。この苦しい時期に、彼は深い信仰の目覚めを経験したとされる。かつて自分は罪人の頭だった、と手紙に書いている。王が支える国教会の儀式や司教の権威を退け、聖書と個人の信仰を重んじるピューリタンの信仰が、以後の彼を動かした。40歳を過ぎるまで、彼は東部の一人の地主にすぎなかった。
1640年、戦費に困った王がようやく議会を開くと、クロムウェルはケンブリッジから選ばれた。議会と王の対立は深まり、1642年、ついに内戦が始まる(清教徒革命と国王処刑)。軍の経験の全くなかったクロムウェルは、故郷で自ら騎兵の隊を作った。彼は、身分ではなく、信仰に燃え、規律を守る者を選んだ。紳士と呼ばれるだけで中身のない者より、自分が何のために戦っているかを知り、知っていることを愛する、粗末な上着の素朴な隊長のほうがよい、と手紙に書いている。兵には略奪や酒や悪態を禁じ、規律を破った者は厳しく罰した。

この騎兵は強かった。1644年、北部のマーストン・ムーアの戦いで、彼の騎兵は王の軍の騎兵を破り、議会軍の勝利を決めた。敵の指揮官ルパート王子は、彼に鉄の男というあだ名を付けたとされ、その騎兵はのちに鉄騎隊と呼ばれた。翌1645年、議会は軍を作り直して全国から兵を集めた常備の軍、新型軍を作った。クロムウェルはその騎兵の指揮官となり、6月のネーズビーの戦いで王の主力を打ち破った。王はやがてスコットランド軍に身を投じ、議会側に引き渡された。
戦いに勝ったあと、議会と軍は割れた。軍の中では、全ての男に選挙権を与えよと唱える平等派の兵士たちが声を上げ、クロムウェルら将校と激しく議論した。王はその隙に逃げ出してスコットランドと手を結び、1648年に再び戦争が起きた。クロムウェルはこれを鎮めると、王とまだ交渉を続けようとする議員たちを兵で議会から締め出させた。残った議員たちは王を裁く特別な法廷を作り、1649年1月、チャールズ1世は処刑された(チャールズ1世の処刑)。死刑執行の命令書には、クロムウェルも署名している。王を裁き、首を斬った国は、ヨーロッパに例がなかった。

王政は廃止され、イングランドは共和国になった。同じ年の8月、クロムウェルは軍を率いてアイルランドへ渡った。アイルランドでは1641年にカトリックの住民の反乱が起き、多くのプロテスタントの入植者が殺されたと伝えられていた。9月、東岸の町ドロヘダを攻め落とすと、クロムウェルは守備兵に容赦をしないよう命じ、兵士と、聖職者を含む一部の住民が殺された。死者は3000人を超えたとされる。翌月のウェックスフォードでも多くの人が殺された。彼はこれを、罪のない血を流した者たちへの神の裁きだと書いている。その後、カトリックの地主の土地は大規模に取り上げられ、イングランドの兵士や資金を出した者たちに与えられた。アイルランドで、クロムウェルはいまも最も憎まれる人物の一人である。
1650年から翌年にかけては、亡き王の息子チャールズを王に立てたスコットランドの軍を、ダンバーとウスターで破った。だが、国内の政治はまとまらなかった。1653年4月、クロムウェルは、自分たちの議席にしがみつく議会に兵を連れて乗り込み、あなた方は長く座りすぎた、神の名において去れ、と言って議会を解散させた。王が議会を閉じたことに反対して戦った人が、同じことをしたのである。

1653年12月、クロムウェルは護国卿となり、終身の国の長として、議会とともに国を治めることになった。だが、選ばれた議会とも折り合わず、何度も解散した。全国を軍の将軍たちに分けて治めさせ、酒場や娯楽を取り締まった時期もある。1657年、議会は彼に王の冠を差し出したが、彼は悩んだ末に断った。ユダヤ人がイングランドに住むことを事実上認めたのも、この時代である。外ではスペインと戦ってカリブ海のジャマイカを奪い、イングランドの海軍の力を高めた。
1658年9月3日、クロムウェルは病で亡くなった。ダンバーとウスターの勝利の記念日だった。息子のリチャードが護国卿を継いだが、軍をまとめられず、1年足らずで退いた。1660年、亡き王の息子がチャールズ2世として迎えられ、王政が戻った。王と議会のどちらが国の主となるのかという争いは、28年後の名誉革命と権利章典で、議会の優位という形で決着することになる。翌年1月、王の処刑の記念日に、クロムウェルの遺体は墓から掘り出され、処刑場で吊るされたのち、首を切り落とされた。首はウェストミンスター・ホールの屋根の上に槍に刺して掲げられ、20年以上そのまま晒された。首はその後、人の手を転々とし、1960年になって、彼が学んだケンブリッジのカレッジに、場所を明かさずに葬られた。

信仰の自由のために戦った人が、アイルランドのカトリックを弾圧した。議会のために戦った人が、議会を解散させて国を治めた。その評価は、時代によって大きく揺れてきた。19世紀には議会政治の先駆者として見直され、ロンドンの国会議事堂の前には彼の像が立っている。その同じ人物の名は、海を隔てた島では、虐殺の記憶とともに語られている。