概要
1494年、フランス王シャルル8世がナポリの王位を求めてアルプスを越えた。それから60年あまり、フランスのヴァロワ家と、スペインと神聖ローマ帝国を束ねるハプスブルク家が、豊かなイタリアを舞台に争い続けた。1525年のパヴィアの戦いではフランス王が捕虜になり、1527年には皇帝の軍がローマを略奪した。1559年のカトー=カンブレジ条約で、スペインがミラノとナポリを押さえて終わった。
場所
45.19°N 9.16°E · イタリア
本文
15世紀の終わりのイタリアは、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇領、ナポリといった国々に分かれ、ルネサンスの富と芸術を誇っていた。互いに争いながらも、外の大国を引き入れないことで釣り合いを保っていた。その釣り合いが、1494年に崩れる。フランス王シャルル8世が、ナポリの王位を受け継ぐ権利があるとして、大軍を率いてアルプスを越えたのである。
フランス軍は大砲を先に立て、ほとんど抵抗を受けずにナポリまで進んだ。これに驚いたイタリアの国々とスペイン、神聖ローマ帝国が手を結び、フランスは引き返す。以後、ルイ12世、フランソワ1世と王が代わっても、フランスはミラノとナポリを狙って何度も攻め込み、スペインと神聖ローマ帝国を一つにまとめたハプスブルク家のカール5世と争った。1525年のパヴィアの戦いでは、フランソワ1世自身が捕虜になった。1527年には、給料の払われない皇帝軍の兵士がローマになだれ込み、何か月にもわたって略奪を続けた。
1559年のカトー=カンブレジ条約で戦いは終わり、スペインがミラノとナポリを支配することになった。イタリアはこの後300年近く、外国の支配の下に置かれる。
この戦争は、国と国が互いに大使を常駐させ、同盟を組み替えながら力の釣り合いを保つという、近代ヨーロッパの外交のやり方を生んだ場でもあった。祖国が大国に踏みにじられるのを見たマキァヴェッリは、その中で『君主論』を書いている。