八時間労働
概要
ロバート・オーウェンが標語を作った。八時間労働、八時間休息、八時間の自由。当時の工場は、一日14時間から16時間が普通で、子どもも同じだけ働いた。彼は自分の紡績工場で、労働時間を短縮し、子どもの就労年齢を上げ、それでも利益が出ることを示した。以後100年、この三つの八が、世界中の労働運動の要求になった。1886年5月1日のアメリカのゼネスト、そしてヘイマーケット事件。1919年、国際労働機関の第1号条約が、これを国際基準とした。
場所
55.66°N -3.78°E · イギリス・スコットランド
関わった人(1)
ロバート・オーウェンAD1771年5月14日–AD1858年11月17日 · 唱えた本文
19世紀の初め、イギリスの紡績工場では、一日に14時間から16時間働くのが当たり前だった。休みは日曜日だけである。そして子どもも、大人と同じだけ働いた。5歳や6歳の子どもが、動き続ける機械の下にもぐり込んで、落ちた綿くずを拾い集めた。機械を止めることは無かった。
この状況に、工場の経営者の側から異を唱えたのがロバート・オーウェンである。1771年、ウェールズの小さな町ニュータウンに生まれ、10歳で奉公に出た。学校で学んだ年月はほとんど無かったが、商才に恵まれ、19歳でマンチェスターの紡績工場の支配人を任されるほどだった。1799年、彼は仲間とともに、スコットランドのニュー・ラナークにある紡績工場を買い取った。工場を築いたのは、のちに義父となるデイヴィッド・デイルで、オーウェンはその娘と結婚し、工場の経営を引き継いだ。

ニュー・ラナークで、オーウェンは当時としては異例のことを次々に行った。14時間近かった労働時間を、10時間半にまで縮めた。それまで工場では、グラスゴーやエディンバラの救貧院から送られてきた数百人の子どもたちが働いていたが、彼は新たに幼い子どもを受け入れるのをやめ、10歳に満たない子どもを働かせることをやめた。1816年には工場の中に「性格形成学院」と名づけた学校を開き、歩けるようになったばかりの幼い子どもから受け入れた。体罰を禁じ、歌や踊り、地理や自然の観察を教えた。フレーベルが「子どもの庭」を開く20年以上前のことで、世界で最も早い幼児教育の場の一つとされる(フレーベルと幼稚園)。
労働者を叱ったり罰金を取ったりする代わりに、「沈黙の監督者」と呼ばれる仕組みも取り入れた。作業台ごとに、四つの面を違う色に塗った木片を吊るし、前の日の働きぶりに応じて、白、黄、青、黒のいずれかの面を表に向ける。言葉で叱らず、色で示すのである。今の目から見れば、これも一つの管理の技術ではある。

工場には会社の店を置き、品物をほぼ原価で売った。当時の多くの工場では、賃金の代わりに会社の店でしか使えない券を渡して労働者を縛っていたが、オーウェンの店はその逆で、利益を学校の運営に回した。この店は、のちの協同組合の運動の源の一つとされる。
そして、肝心なことに、それでも工場は利益を上げた。オーウェンは慈善としてではなく、経営としてこれを行い、それが成り立つことを実際に示したのである。ニュー・ラナークは評判になり、ヨーロッパ中から見学者が訪れた。のちのロシア皇帝ニコライ1世も、その一人だった。

1817年、オーウェンは一つの標語を掲げた。八時間の労働、八時間の休養、八時間の休息。一日の24時間を三つに等しく分けようという呼びかけである。日本では、八時間労働、八時間休息、八時間の自由、と訳されることも多い。機械が生産力を大きく引き上げた以上、人はもっと短い時間で同じだけのものを作れるはずだ。それなら、その恵みを受け取るのは誰なのか、というのが彼の問いだった。
この三つの八は、その後百年にわたって、世界の労働運動の目標になった。イギリスでは、1802年に工場で働く徒弟の健康を守る法律ができたが、ほとんど守られなかった。1833年の工場法(1833年工場法)は、9歳に満たない子どもを紡績工場で働かせることを禁じ、9歳から13歳までは週48時間、13歳から18歳までは週69時間に労働を制限し、さらに工場を見回る監督官を置いた。実際に取り締まる仕組みを持った、最初の本格的な労働の法律とされる。1847年には、女性と若者の労働を一日10時間に制限する法律ができた。だが、大人の男性の八時間労働は、20世紀を待たなければならなかった。

最も早く八時間労働を勝ち取った人々の一つは、オーストラリアのメルボルンの石工たちだった。1856年4月21日、彼らは道具を置いて議事堂まで行進し、賃金を下げずに一日八時間で働く約束を取りつけた。彼らの旗には「888」の数字が描かれていた。
アメリカでは、1886年5月1日、八時間労働を求めて全国で大規模なストライキが起き、数十万人が参加した。その数日後の5月4日、シカゴのヘイマーケット広場で開かれた集会の終わりごろ、解散を命じる警官隊に向かって何者かが爆弾を投げた。警官と市民に多くの死者が出たが、投げた人物はいまも分かっていない。それでも8人の無政府主義者が起訴され、爆弾を投げた証拠が示されないまま、演説や思想を理由に7人に死刑が言い渡された。
4人が絞首刑になり、1人は獄中で命を絶った。1893年、イリノイ州知事ジョン・ピーター・アルトゲルドは、裁判そのものが不当だったとして、残る3人を赦した。この決断で、彼は政治生命を失った(ヘイマーケット事件)。

1889年、パリに集まった各国の社会主義者たちは、5月1日を、八時間労働を求めて労働者が世界中で声を上げる日と決めた。メーデーである。アメリカの事件が、ヨーロッパで記念日になった。一方、アメリカ自身は、労働者の祝日を9月の第1月曜日に置いている。1894年、クリーヴランド大統領が、あえて5月1日を避けて定めたとされる。
国として八時間労働を全面的に法律で定めた最初の例の一つは、革命直後のロシアだった。1917年11月、ソヴィエト政権は八時間労働を布告した(ロシア革命)。革命が広がることを恐れた各国の政府は、労働者の要求に応える必要に迫られた。1919年、第一次世界大戦の講和の中で国際労働機関が生まれ(ILOの設立)、その最初の条約が、工業で働く人々の労働時間を一日八時間、週48時間に制限するものだった。アメリカでは1926年、自動車会社のフォードが、週五日、40時間の勤務を取り入れた(週五日、四十時間)。

日本では、1911年に工場法が作られ、1916年に施行された。だが働く時間の上限は一日12時間で、適用される工場の範囲も狭く、例外も多かった。1919年、神戸の川崎造船所の争議の中で、八時間労働が取り入れられた。日本で最も早い例の一つである。戦後の1947年、労働基準法が、一日八時間、週48時間を定め、のちに週40時間へと短縮された。
では、八時間労働は実現したのだろうか。経済協力開発機構の統計では、多くの先進国で、働く人一人の一年間の平均労働時間は1300時間から1700時間ほどで、週になおせば30時間から35時間ほどになる。数字の上では八時間を下回っている。ただしこれはパートタイムの人々を含めた平均で、フルタイムで働く人に限れば、もっと長い。

記録に残らない残業や、家への持ち帰り、長い通勤もある。電子メールや通知で、仕事は勤務時間の外にまで追いかけてくる。2017年、フランスは、勤務時間外には仕事の連絡に応じなくてもよい「つながらない権利」を法律に定め、ほかの国々も後に続いている。オーウェンの標語の残りの二つの八、休養と休息が守られているかどうかは、いまも問われ続けている。
オーウェン自身は、その後さらに遠くへ進んだ。1825年、アメリカのインディアナ州に、人々が財産を分け合って暮らす共同体ニュー・ハーモニーを作ったが、わずか2年ほどで崩れ、財産の大半を失った。働いた時間を単位にして品物を交換する券を作る試みや、全国の労働組合を一つにまとめる大連合も、短命に終わった。晩年は心霊主義に傾いた。のちにエンゲルスは、彼を「空想的社会主義者」の一人に数えた(フリードリヒ・エンゲルス)。1858年、オーウェンは故郷のニュータウンで、87歳の生涯を閉じた。

ニュー・ラナークの工場の村は、いまは世界遺産になっている。そして1817年に彼が掲げた三つの八は、いまも世界のどこかで、労働組合の旗に描かれている。