できごと

郊外住宅の量産

Levittown, New York
AD1947年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコホンジュラスキューバグアテマラAD1947年レヴィットタウン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1947年の版図を描いています(9勢力)。

概要

復員兵に住宅がなかった。レヴィット父子は、ロングアイランドのジャガイモ畑を買い、家を工場方式で建てた。基礎を打たず、コンクリート板の上に建てる。部材を寸法通りに切って運び、27の工程に分けた職人の班が家から家へ移動する。1日30戸以上。7990ドル、頭金なしで復員兵に売った。1万7000戸。アメリカの郊外と自動車社会の原型になった。当初の売買契約には、白人以外への転売を禁じる条項があった。

場所

レヴィットタウン
40.73°N -73.51°E · アメリカ・ニューヨーク州

本文

1945年に第二次大戦が終わると、アメリカでは千万人を超える兵士が故郷へ戻ってきた。彼らには住む家がなかった。1929年からの世界恐慌で住宅の建設はほとんど止まり、戦争中は資材が軍需に回された。十数年のあいだ、新しい家はほとんど建っていなかったのである。復員兵の多くは親の家に身を寄せ、狭い部屋に家族を詰め込み、ときには車や廃車になった路面電車を改造して暮らした。

金のほうは用意されていた。1944年に成立した復員兵援護法は、復員兵に大学の学費や失業手当を与え、さらに頭金なしで住宅ローンを組めるよう国が保証した。家を買う資格のある人は何百万人もいる。足りないのは家そのものだった。

レヴィットタウンの住宅(量産型郊外住宅)
レヴィットタウンの住宅(量産型郊外住宅)Wikimedia Commons Gottscho-Schleisner Collection · Public domain

ここに目をつけたのが、ブルックリンのユダヤ系の一家、エイブラハム・レヴィットと二人の息子ウィリアム、アルフレッドである。一家は戦前から住宅開発を手がけていた。戦争中、ウィリアムは海軍の建設部隊(シービーズ)にいて、兵舎を大量に速く建てる仕事を経験した。その方法を、民間の住宅に持ち込めばよい。1946年から47年にかけて、一家はニューヨーク州ロングアイランドのナッソー郡、ヘムステッドのジャガイモ畑を買い集めた。

彼らのやり方は、フォードの流れ作業を裏返したものだった。工場では製品が動き、作業する人は持ち場に留まる。家は動かせないので、代わりに人が動く。

レヴィットタウンの住宅
レヴィットタウンの住宅Wikimedia Commons Gottscho-Schleisner Collection · Public domain

まず地下室をやめた。深い基礎を掘らずに、地面に直接コンクリートの板を打ち、その中に温水暖房の管を埋め込んだ。地元の建築規則は地下室を求めていたが、レヴィットは規則を変えさせた。次に、木材は現場で切らない。自社の製材所で寸法どおりに切り、番号を付けて束ね、トラックで敷地に配った。釘の工場も持ち、森林まで買って、材料を自前でまかなった。

そして建て方を二十七の工程に分けた。床を張る班、壁の骨組みを立てる班、屋根を葺く班、配管の班、電気の班、白の下塗りだけをする班、上塗りだけをする班というように、それぞれの班は一つの仕事だけをして、隣の家、その隣の家へと順に移っていく。仕事を単純にしたので、熟練した職人でなくても務まった。労働組合を入れなかったため、組合とは激しく対立した。

レヴィットタウンの住宅
レヴィットタウンの住宅Wikimedia Commons Gottscho-Schleisner Collection · Public domain

最盛期には一日に三十戸を超える家が仕上がった。1947年から1951年までに建てた家は一万七千戸あまりにのぼる。最初の家は二寝室に居間と台所、浴室が一つという小さな平屋で、屋根裏は未完成のまま残され、家族が増えたら自分で部屋にできるようになっていた。冷蔵庫やコンロ、洗濯機が備え付けで、1950年の型からはテレビまで付いた。当時としては驚くべき装備である。敷地には芝生と若木が植えられ、どの家も通りから少し下がって建てられた。塀を作ることは禁じられ、洗濯物を外に干す日も決められていた。整った町並みを保つための細かな決まりも、売り物の一部だった。

1947年に入居が始まった最初の家々は、まず貸家として出され、のちに買い取れるようになった。1949年に売り出された平屋は7990ドルで、復員兵なら頭金なしで買えた。月々の支払いは、同じ地域で部屋を借りるより安かった。売り出しの日には長い行列ができ、一日で千を超える契約が結ばれたと伝えられる。

「レヴィットタウンへようこそ」の看板
「レヴィットタウンへようこそ」の看板Wikimedia Commons Sullynyflhi · Public domain

レヴィット家はその後、ペンシルベニア州とニュージャージー州にも同じ名前の町を作った。ほかの開発業者もこぞってこの方式をまね、1950年代にはアメリカの新しい家の多くが郊外に建てられた。郊外には店も職場もなく、学校も遠い。暮らしには車が欠かせなかった。1956年には連邦の補助による州間高速道路の建設が決まり、郊外が車を呼び、車が道路を呼び、道路がさらに遠い郊外を呼んだ。中産階級が郊外へ移ると、都心は税収を失い、学校や商店が寂れていった。

この物語には、もう一つの面がある。レヴィットタウンの初期の売買契約には、白人以外の人種の者が住むことを禁じる条項が入っていた。ただし白人の家に雇われた使用人は除く、という但し書き付きである。ウィリアム・レヴィットは、住宅問題と人種問題を同時に解決することはできない、という趣旨の弁明をした。彼自身はユダヤ系で、当時はユダヤ人もまた多くの住宅地から締め出されていた。1948年、連邦最高裁は人種による制限条項を裁判所が執行することはできないと判断したが(シェリー対クレーマー事件)、実際の締め出しはその後も続いた。1960年の国勢調査で、ニューヨーク州レヴィットタウンの八万人を超える住民の中に、黒人は一人もいなかったとされる。

問題は一つの開発業者にとどまらなかった。住宅ローンを保証する連邦住宅局は、融資の基準として地域の格付けを行い、黒人が住む地区やこれから住みそうな地区を危険な地区とみなした。地図の上で赤く塗られたことから、のちにレッドライニングと呼ばれる慣行である。そのため、同じ法律の対象であるはずの黒人の復員兵の多くは、郊外の新しい家を買えなかった。アメリカの中産階級にとって、家は値上がりして子に受け継がれる最大の財産である。その入口で人種による差が付けられたことが、いまの白人と黒人の世帯の資産の大きな差の一因だと、多くの研究者が指摘している。

1957年、ペンシルベニア州のレヴィットタウンに、黒人のマイヤーズ夫妻が前の持ち主から家を買って移り住んだ。家の前には数百人が集まり、石が投げられ、十字架が焼かれた。州の警察が出動する騒ぎになった。

同じ形の家が並ぶ郊外は、知識人からも批判された。デイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』やベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』は、郊外の画一的な暮らしや、家に閉じ込められた主婦の息苦しさを論じた。1962年には、丘に並ぶ同じような小さな箱の家を皮肉る歌「リトル・ボックス」が生まれている。これはカリフォルニアの新興住宅地を見て書かれた歌である。一方で、社会学者ハーバート・ガンズはニュージャージー州のレヴィットタウンに自ら住み込んで調べ、1967年の本で、住民の多くが退屈も孤立もしておらず、暮らしに満足していたことを示した。

ウィリアム・レヴィット自身の後半生は、町ほど長続きしなかった。1968年、彼は会社を大手の複合企業に売って巨額の金を手にしたが、契約によってしばらくアメリカ国内で家を建てることができなくなり、海外での開発や派手な暮らしで財産を減らしていった。晩年は資金繰りに行き詰まり、1994年に世を去ったときには、かつての富はほとんど残っていなかったという。郊外の暮らしを何百万人に届けた人物は、その恩恵の外で人生を終えた。

ロングアイランドのレヴィットタウンは、いまも住宅地として続いている。最初の家のほとんどは増築や改装を重ね、屋根裏は部屋になり、車庫が付き、二階が載って、いまでは一軒ずつまるで違う姿になった。建てられたときのまま残る家はごくわずかだという。7990ドルで売られた家は、いまでは数十万ドルで取引されている。

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