できごと

スレブレニツァの虐殺

Srebrenica massacre
AD1995年7月11日
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1995年7月11日の版図を描いています(57勢力)。

概要

国連が「安全地帯」と宣言した町。守っていたのはオランダ軍400人。ムラディッチのセルビア人部隊が入り、女子供をバスで運び出し、男と少年8372人を、数日で、倉庫と学校と野原で殺して、埋めた。後に重機で掘り返して別の場所へ移した(骨が散らばって、身元の特定を難しくした)。ヨーロッパで第二次大戦後、最大の大量殺害。国際法廷がジェノサイドと認定した。

場所

スレブレニツァ
44.11°N 19.30°E · ボスニア・ヘルツェゴビナ

関わった人(1)

ラトコ・ムラディッチAD1942年3月12日–? · 命じた

本文

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。人口の44%がボシュニャク(ムスリム)、31%がセルビア人、17%がクロアチア人。セルビア人勢力(ベオグラードのミロシェヴィッチの支援を受けた)が、東部の町を次々に取り、非セルビア人を追い出した。「民族浄化」。

スレブレニツァ。ドリナ川に近い、銀鉱山の町(「スレブロ」は銀)。周りをセルビア人の村に囲まれた、ボシュニャクの飛び地。1992年から3年、包囲された。周辺から逃げた人が集まって、人口4万人(元は6000人)。

13歳の少年の墓石(2007年7月11日)
13歳の少年の墓石(2007年7月11日)Wikimedia Commons Pyramid · CC BY 2.5

1993年4月16日、国連安保理決議819。スレブレニツァを「安全地帯(セーフ・エリア)」と宣言した。非武装化と引き換えに、国連が守る。守備は、当初カナダ軍、1994年からオランダ軍。「ダッチバット」。最大時で600人、1995年7月には約400人(うち武装できるのは半分ほど)。装備は軽武装。補給はセルビア側に止められ、燃料も食糧も尽きかけていた。

1995年7月6日、ムラディッチの部隊が攻撃を始めた。ダッチバットは空爆を要請した。手続きの誤りと、天候と、NATOと国連の指揮系統の混乱で、7月11日の午後に2機が来て、2発を落として、終わった(セルビア側が「オランダ兵の人質を殺す」と脅した)。

1994年9月時点でのボスニア・ヘルツェゴビナの支配勢力図。セルビアとの国境に近い東部ボスニアにあるボシュニャク人の飛び地がスレブレニツァとジェパである。
1994年9月時点でのボスニア・ヘルツェゴビナの支配勢力図。セルビアとの国境に近い東部ボスニアにあるボシュニャク人の飛び地がスレブレニツァとジェパである。Wikimedia Commons Public domain

7月11日、町が落ちた。ムラディッチがカメラの前で歩き、「セルビアの人々への贈り物だ」と言った。

住民2万〜2万5000人が、ポトチャリの国連基地に逃げた。基地に入れたのは5000人、残りは外の野に。7月12日、バスとトラックが来た。女と子供と老人を「移送」した。男(16歳から60歳ほど。実際には少年と老人も)は分けられた。オランダ兵は、止めなかった(止められなかった、と後に主張した。武装解除された住民の身元リストを渡した、という批判もある)。

スレブレニツァ虐殺に関する軍事作戦の図。緑の矢印が脱出するボシュニャク人の行軍隊
スレブレニツァ虐殺に関する軍事作戦の図。緑の矢印が脱出するボシュニャク人の行軍隊Wikimedia Commons Central Intelligence Agency · Public domain

もう一つの流れ。町の男たち1万5000人が、森を通って、55キロ先のトゥズラ(ボスニア政府側)へ歩いて逃げようとした。「死の行進」。待ち伏せ、砲撃、そして偽の投降の呼びかけ(セルビア兵が国連の車と制服を使った)。たどり着いたのは3分の1ほど。

殺害。7月13日から17日ごろまで。倉庫、学校の体育館、農場、ダムの堤、野原。手を縛って、後ろから撃った。ブラトゥナツ、クラヴィツァの倉庫(1000人以上)、オラホヴァツ、ペトコヴツィ、ピリツァの文化会館、ブランイェヴォの農場。ブルドーザーで穴に埋めた。

ポトチャリにあった国連軍司令部。虐殺当時、オランダ軍(ダッチバット)370人が駐留していた
ポトチャリにあった国連軍司令部。虐殺当時、オランダ軍(ダッチバット)370人が駐留していたWikimedia Commons MichaelBueker · CC BY 3.0

8300人以上(確認された身元は8372人。国際刑事裁判所の認定は8000人以上)。

9月から11月、セルビア側は、掘り返した。連合軍の偵察衛星が写真を撮っていることを知って、遺体を重機で掘り出し、トラックで運んで、別の場所に埋め直した。骨がばらばらになり、一人の遺体が複数の墓に分かれた。「二次墓地」が数十か所。だから、身元の特定にDNA鑑定が要り、いまも続いている(2023年までに約6900人が特定された。毎年7月11日、新しく特定された遺体が埋葬される)。

戦後のスレブレニツァの損壊した建物(2008年)
戦後のスレブレニツァの損壊した建物(2008年)Wikimedia Commons Maurits90 · Public domain

責任。オランダ議会の調査で内閣が総辞職した(2002年)。国連事務総長アナンは1999年、報告書で「国連の失敗」を認めた。「スレブレニツァの悲劇は、国連の歴史に、永遠に付きまとうだろう」。2019年、オランダ最高裁は、オランダ国家に、基地の中にいた350人の男の死について、10%の責任があると認めた。

法。1998年、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所が、クルスティッチ将軍を「ジェノサイドの幇助」で有罪にした。2007年、国際司法裁判所が、スレブレニツァで起きたことをジェノサイドと認定した(セルビア国家の責任は「防止の義務違反」に留めた)。2016年、カラジッチ(政治指導者)。2017年、ムラディッチ。両者とも終身刑。

ノヴァ・カサバの集団墓地の発掘調査で見つかった犠牲者の遺骨
ノヴァ・カサバの集団墓地の発掘調査で見つかった犠牲者の遺骨Wikimedia Commons UN International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia · CC BY 2.0

セルビアとスルプスカ共和国の政治家の一部は、いまもジェノサイドであることを否定している。ポトチャリの記念墓地に、8000本以上の白い墓標が並んでいる。

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