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Event / できごと

スレブレニツァの虐殺

Srebrenica massacre
AD1995年7月11日
重要度 5

概要

国連が「安全地帯」と宣言した町。守っていたのはオランダ軍400人。ムラディッチのセルビア人部隊が入り、女子供をバスで運び出し、男と少年8372人を、数日で、倉庫と学校と野原で殺して、埋めた。後に重機で掘り返して別の場所へ移した(骨が散らばって、身元の特定を難しくした)。ヨーロッパで第二次大戦後、最大の大量殺害。国際法廷がジェノサイドと認定した。

場所

スレブレニツァ
44.11°N 19.30°E · ボスニア・ヘルツェゴビナ

関わった人(1)

ラトコ・ムラディッチAD1942年3月12日–? · 命じた

本文

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。人口の44%がボシュニャク(ムスリム)、31%がセルビア人、17%がクロアチア人。セルビア人勢力(ベオグラードのミロシェヴィッチの支援を受けた)が、東部の町を次々に取り、非セルビア人を追い出した。「民族浄化」。

スレブレニツァ。ドリナ川に近い、銀鉱山の町(「スレブロ」は銀)。周りをセルビア人の村に囲まれた、ボシュニャクの飛び地。1992年から3年、包囲された。周辺から逃げた人が集まって、人口4万人(元は6000人)。

1993年4月16日、国連安保理決議819。スレブレニツァを「安全地帯(セーフ・エリア)」と宣言した。非武装化と引き換えに、国連が守る。守備は、当初カナダ軍、1994年からオランダ軍。「ダッチバット」。最大時で600人、1995年7月には約400人(うち武装できるのは半分ほど)。装備は軽武装。補給はセルビア側に止められ、燃料も食糧も尽きかけていた。

1995年7月6日、ムラディッチの部隊が攻撃を始めた。ダッチバットは空爆を要請した。手続きの誤りと、天候と、NATOと国連の指揮系統の混乱で、7月11日の午後に2機が来て、2発を落として、終わった(セルビア側が「オランダ兵の人質を殺す」と脅した)。

7月11日、町が落ちた。ムラディッチがカメラの前で歩き、「セルビアの人々への贈り物だ」と言った。

住民2万〜2万5000人が、ポトチャリの国連基地に逃げた。基地に入れたのは5000人、残りは外の野に。7月12日、バスとトラックが来た。女と子供と老人を「移送」した。男(16歳から60歳ほど。実際には少年と老人も)は分けられた。オランダ兵は、止めなかった(止められなかった、と後に主張した。武装解除された住民の身元リストを渡した、という批判もある)。

もう一つの流れ。町の男たち1万5000人が、森を通って、55キロ先のトゥズラ(ボスニア政府側)へ歩いて逃げようとした。「死の行進」。待ち伏せ、砲撃、そして偽の投降の呼びかけ(セルビア兵が国連の車と制服を使った)。たどり着いたのは3分の1ほど。

殺害。7月13日から17日ごろまで。倉庫、学校の体育館、農場、ダムの堤、野原。手を縛って、後ろから撃った。ブラトゥナツ、クラヴィツァの倉庫(1000人以上)、オラホヴァツ、ペトコヴツィ、ピリツァの文化会館、ブランイェヴォの農場。ブルドーザーで穴に埋めた。

8300人以上(確認された身元は8372人。国際刑事裁判所の認定は8000人以上)。

9月から11月、セルビア側は、掘り返した。連合軍の偵察衛星が写真を撮っていることを知って、遺体を重機で掘り出し、トラックで運んで、別の場所に埋め直した。骨がばらばらになり、一人の遺体が複数の墓に分かれた。「二次墓地」が数十か所。だから、身元の特定にDNA鑑定が要り、いまも続いている(2023年までに約6900人が特定された。毎年7月11日、新しく特定された遺体が埋葬される)。

責任。オランダ議会の調査で内閣が総辞職した(2002年)。国連事務総長アナンは1999年、報告書で「国連の失敗」を認めた。「スレブレニツァの悲劇は、国連の歴史に、永遠に付きまとうだろう」。2019年、オランダ最高裁は、オランダ国家に、基地の中にいた350人の男の死について、10%の責任があると認めた。

法。1998年、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所が、クルスティッチ将軍を「ジェノサイドの幇助」で有罪にした。2007年、国際司法裁判所が、スレブレニツァで起きたことをジェノサイドと認定した(セルビア国家の責任は「防止の義務違反」に留めた)。2016年、カラジッチ(政治指導者)。2017年、ムラディッチ。両者とも終身刑。

セルビアとスルプスカ共和国の政治家の一部は、いまもジェノサイドであることを否定している。ポトチャリの記念墓地に、8000本以上の白い墓標が並んでいる。

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