できごと

オプリーチニナ

Oprichnina
AD1565年
重要度 5
オプリーチニナに関わる図版:0NevrevNV Oprichniki BISH
0NevrevNV Oprichniki BISH Wikimedia Commons Nikolai Nevrev · Public domain

概要

イヴァン4世は突然モスクワを出て「貴族の裏切りに疲れた」と退位を宣言し、民衆が戻るよう請願すると、条件として国を二つに割った。オプリーチニナ(自分の直轄地)とゼムシチナ。黒衣に犬の首と箒を鞍につけた親衛隊オプリーチニキが、貴族を殺し、土地を奪った。1570年、ノヴゴロドを「裏切り」の疑いで襲い、数千人を殺した。1572年に廃止。ロシアの貴族は折れ、皇帝の下に平らになった。

場所

モスクワ
55.76°N 37.62°E · ロシア

関わった人(1)

イヴァン4世(雷帝)AD1530年8月25日–AD1584年3月28日 · 割った

本文

16世紀のモスクワ国家は、皇帝の権威が強いように見えて、実際には古い大貴族(ボヤール)の家々が大きな力を持っていた。彼らは代々の領地を持ち、貴族会議に席を占め、互いに争いながら政治を動かした。3歳で父を亡くしたイヴァン4世(雷帝)は、幼い頃、母も失い、大貴族たちが権力を奪い合い、自分たちを軽んじる姿を見て育った。その記憶は、彼の生涯に深い傷を残したといわれる。

1547年、17歳のイヴァンは、モスクワの君主として初めて正式にツァーリ(皇帝)として戴冠した。治世の前半には、法典の整備や地方の制度の改革を進め、1552年にはヴォルガ川中流のカザン・ハン国を征服して(カザン攻略)、東への道を開いた。だが1558年に始めたバルト海への出口を求めるリヴォニアの戦争は長引き、1560年には最愛の妃アナスタシアが亡くなる。イヴァンは、彼女が毒殺されたと疑った。重臣の一人クルプスキー公がリトアニアへ寝返ったことも、裏切りへの疑いを深めた。

イヴァン4世
イヴァン4世Wikimedia Commons Гравюра на дереве Х.Вайгеля. H.Waigel · Public domain

1564年12月、イヴァンは突然、家族と宝物とイコン、側近たちを荷車に積んで、行き先を告げずにモスクワを出た。しばらくして、モスクワの北東の離宮アレクサンドロフから二通の手紙が届く。一通は大貴族と聖職者に宛てたもので、お前たちの裏切りと横領にもう耐えられない、私は位を捨てる、と書かれていた。もう一通はモスクワの町の人々に宛て、お前たちに怒りは無い、と告げていた。

君主のいない国に、町の人々はおびえた。人々は貴族と聖職者に詰め寄り、皇帝に戻ってもらうよう求めた。使節がアレクサンドロフへ赴くと、イヴァンは条件を出した。裏切り者は自分の思うままに罰する。そして、国を二つに分ける、と。1565年の初め、イヴァンはモスクワへ戻った。

イヴァン4世
イヴァン4世Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Alex Bakharev assumed (based on copyright claims). · Public domain

オプリーチニナとは、もとは「〜を除いた」という意味の言葉から来ていて、未亡人が夫の遺産の中から自分の取り分として受け取る土地をいった。イヴァンは国の一部、すなわち北の毛皮や塩の産地、交易の要地、モスクワの中のいくつかの通りを自分の直轄地とし、それをオプリーチニナと呼んだ。残りはゼムシチナ(国土)として、これまでどおり貴族会議と役所が治めた。

直轄地を守り、皇帝の敵を狩り出すために作られたのが、オプリーチニキと呼ばれる親衛隊である。初めは1000人ほど、のちには数千人に増えた。黒い服をまとい、黒い馬に乗り、鞍には犬の首と箒を付けていたと伝えられる。裏切りを嗅ぎ出し、掃き出すというしるしである。イヴァンはアレクサンドロフの離宮で、親衛隊の幹部とともに修道院をまねた暮らしをし、自ら院長を名乗って、夜の祈りと拷問を交互に行ったと、外国人の記録は伝える。誇張も含まれているだろうが、恐ろしい光景が人々に語られていたことは確かである。

オプリーチニナ領の地図
オプリーチニナ領の地図Wikimedia Commons Kjetil_r , Lokal_Profil · CC BY 2.5

直轄地に組み入れられた土地の貴族たちは、先祖代々の領地を取り上げられて遠くへ移され、その土地は親衛隊員に分け与えられた。疑われた者は家族ごと処刑された。皇帝の従弟で、帝位の競争相手と見られたウラジーミル・スタリツキー公は、毒を飲むよう命じられた。モスクワの府主教フィリップは、大聖堂で公然と皇帝を諫めたため、位を奪われて修道院に送られ、のちに親衛隊の幹部マリュータ・スクラートフに絞め殺された。

最も凄惨だったのは、1569年の暮れから翌1570年にかけてのノヴゴロドの襲撃である。ノヴゴロドはかつて民会と交易で栄えた自治の都市で(ルーシの成立)、リトアニアと通じて寝返ろうとしているという告発があった。偽の告発だったと考えられている。イヴァンと親衛隊は1か月以上にわたって町と周辺の修道院を襲い、人々を拷問し、凍ったヴォルホフ川の氷の穴に投げ込んだ。死者の数は、当時の記録をもとにした推計で数千人とされ、数万という数は後世の誇張とみられる。ノヴゴロドは二度と以前の繁栄を取り戻さなかった。

オプリーチニキとボヤールたち(ヴァシーリー・フディヤコフ画)
オプリーチニキとボヤールたち(ヴァシーリー・フディヤコフ画)Wikimedia Commons Vasily Khudiakov · Public domain

だが、恐怖で固めた体制は、外の敵には弱かった。1571年、クリミア・ハンの軍が南から攻め込み、モスクワを焼き払った。親衛隊はほとんど役に立たなかった。翌1572年、モスクワの南のモロディで、オプリーチニナとゼムシチナの兵を合わせた軍がクリミア軍を打ち破る。その年、イヴァンはオプリーチニナを廃止し、その言葉を口にすることさえ禁じたと伝えられる。親衛隊の幹部の多くも、それまでに処刑されていた。

7年あまりのオプリーチニナは、ロシアの社会を大きく作り替えた。古い大貴族の家々は土地と力を失い、皇帝に仕えることで土地を与えられる士族が国家の柱になった。一方、恐怖と戦争と重税から農民が逃げ出し、中部の村々は荒れ果てた。人手を失った地主のために、政府は農民が移動できる時期を制限し、やがて農民を土地に縛りつける農奴制が固まっていく(それが解かれるのは1861年の農奴解放令である)。イヴァン自身は1581年、怒りにまかせて跡継ぎの息子を打ち殺し、1584年に死んだ。その後継者の家系が絶えると、ロシアは内乱と外国の介入が続く動乱の時代に落ち込み、1613年のロマノフ朝の始まりによってようやく収まる。オプリーチニナが荒らした社会が、その下地になったと考えられている。

オプリーチニキの到来に逃げる人々を描いた絵(アポリナリー・ヴァスネツォフ画)
オプリーチニキの到来に逃げる人々を描いた絵(アポリナリー・ヴァスネツォフ画)Wikimedia Commons Apollinary Vasnetsov · Public domain

オプリーチニナの評価は、時代によって揺れてきた。病的な暴君の恐怖政治とみる見方がある一方、大貴族を抑えて中央集権を進めるための荒療治だったとみる見方もある。20世紀にはヨシフ・スターリンがイヴァンを強い国家を築いた君主として称え、映画監督エイゼンシュテインに『イワン雷帝』を撮らせた。だが、親衛隊を狂気じみた集団として描いた第2部はスターリンの怒りを買い、上映を禁じられて、公開されたのは1958年、スターリンの死後のことだった。

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