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Event / できごと

オプリーチニナ

Oprichnina
AD1565年
重要度 5

概要

イヴァン4世は突然モスクワを出て「貴族の裏切りに疲れた」と退位を宣言し、民衆が戻るよう請願すると、条件として国を二つに割った。オプリーチニナ(自分の直轄地)とゼムシチナ。黒衣に犬の首と箒を鞍につけた親衛隊オプリーチニキが、貴族を殺し、土地を奪った。1570年、ノヴゴロドを「裏切り」の疑いで襲い、数千人を殺した。1572年に廃止。ロシアの貴族は折れ、皇帝の下に平らになった。

場所

モスクワ
55.76°N 37.62°E · ロシア

関わった人(1)

イヴァン4世(雷帝)AD1530年8月25日–AD1584年3月28日 · 割った

本文

1564年12月3日、イヴァン4世は家族と、宝物と、イコンと、宮廷の一部を荷馬車に積んで、モスクワを出た。行き先を言わなかった。1か月、誰も知らなかった。アレクサンドロフスカヤ・スロボダ(モスクワの北東100キロ)から、2通の手紙が届いた。1通は貴族と聖職者へ。「あなたたちの裏切りと横領に耐えられない。私は退位する」。1通はモスクワの町人へ。「あなたたちに私の怒りはない」。

町人が押しかけた。「戻ってください。裏切り者は自分で罰してください」。使節が行った。イヴァンは条件を出した。「私の望むままに、裏切り者を処罰する。そして、私は国を二つに分ける」。

オプリーチニナ。「オプリチ(〜を除いて)」から。未亡人が夫の遺産の中で自分の取り分にする土地を、こう呼んだ。イヴァンは、国の一部(北部の毛皮と塩の土地、モスクワの一部の通り、要衝)を自分の直轄にした。残りは「ゼムシチナ(国土)」で、従来の役所と貴族会議(ボヤール・ドゥーマ)が治める。

オプリーチニキ。初め1000人、のち6000人。黒衣、黒馬。鞍に犬の首と箒をつけた。「裏切りを嗅ぎ出して、掃き出す」。修道会のような組織で、イヴァンが「院長」を名乗り、アレクサンドロフの館で夜の祈りと拷問を交互にした、と外国人の記録は言う(誇張がある)。

オプリーチニナの土地の貴族は追い出され、オプリーチニキが土地を得た。ウラジーミル・スタリツキー公(イヴァンの従弟。皇位の対抗者)は毒杯を飲まされた。府主教フィリップは、大聖堂で公然と皇帝を諫めて、廃位され、絞殺された。

1570年1月、ノヴゴロド。「リトアニアに寝返る密書があった」(偽の告発、と考えられる)。オプリーチニキが5週間、市を襲った。ヴォルホフ川に人を投げ、氷の下に沈めた。数千人(1500人という記録から6万人という誇張まで)。ノヴゴロドは、モスクワと違う伝統(民会、交易、自治)を持つ最後の都市だった。二度と立ち直らなかった。

1571年、クリミア・ハンのデヴレト・ギレイがモスクワを焼いた。オプリーチニキの軍は役に立たなかった。1572年、モロディの戦いでゼムシチナの軍が勝った。同じ年、イヴァンはオプリーチニナを廃止し、その言葉を口にすることも禁じた。オプリーチニキの多くが、その後、処刑された。

結果。貴族(ボヤール)の土地と家系が壊れ、皇帝の下に、奉仕する地主(ドヴォリャーニン)が並んだ。農民は逃げ、土地が荒れ(中央部の耕地の8割が放棄された記録がある)、それを止めるために農民の移動が禁じられていった。農奴制。「動乱の時代」(1598〜1613年)の下地。

イヴァンはこれを「反逆への対処」と言い、後の歴史家は「中央集権の代償」「病んだ皇帝の恐怖政治」と言った。スターリンは1940年代、エイゼンシュテインの映画『イヴァン雷帝』を通して、オプリーチニナを「進歩的な国家の軍」として描かせようとした。第2部は、オプリーチニキを狂った修道会のように撮ったので、上映が禁じられた(1958年まで)。

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