人物

ジョージ・ワシントン

George Washington
AD1732年2月22日 – AD1799年12月14日(享年67)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

独立軍を率い、初代大統領になった。二期で自ら退いたことが、その後の型を作る。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(2)

アメリカ独立宣言AD1776年7月4日 · 独立軍の総司令ヨークタウンの戦いAD1781年10月19日 · 総指揮

本文

1732年2月22日、イギリス領北アメリカのヴァージニア植民地で、農園主の家に生まれた。当時の暦では1731年2月11日になる。11歳で父を亡くし、兄たちのようにイギリスへ留学することはできなかった。のちの建国の指導者たちの多くと違い、大学の教育は受けていない。

ギルバート・スチュアート画、ジョージ・ワシントンの肖像
ギルバート・スチュアート画、ジョージ・ワシントンの肖像Wikimedia Commons Gilbert Stuart · Public domain

測量士から出発した。16歳で辺境の土地の測量に加わり、17歳で郡の測量官になる。西の未開の土地を歩いた経験は、土地への関心と、荒野での行軍の感覚を彼に与えた。異母兄ローレンスが死ぬと、やがてその農園マウント・ヴァーノンを受け継いだ。

1754年、22歳の民兵の士官として、オハイオ川の流域へフランス軍の進出を探りに送られた。小さな衝突でフランスの士官を死なせてしまい、これが北アメリカでの英仏の戦争、そしてヨーロッパの七年戦争につながる火種の一つになった。翌年のイギリス軍の遠征では、指揮官が戦死する大敗の中で、馬を2頭撃たれ、上着に4発の弾を受けながら生き残り、残兵をまとめて退いた。この戦争でイギリス側について戦った経験が、後に生きる。

フリーメイソンの正装を着て聖書を前に立つジョージ・ワシントン
フリーメイソンの正装を着て聖書を前に立つジョージ・ワシントンWikimedia Commons Creator:James Fuller Queen · Public domain

1759年、裕福な未亡人マーサ・カスティスと結婚し、ヴァージニアでも有数の農園主になった。植民地の議会の議員も務める。イギリスが植民地に課税を強めると、反対の側に立った。煙草をイギリスの商人に売っては借金がかさむ仕組みに、不満を抱いていたこともある。

1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで戦いが始まると、大陸会議は6月、彼を大陸軍の総司令官に選んだ。南部のヴァージニア出身で、軍の経験がある人物を選ぶことで、植民地全体の戦いに見せる狙いもあった。翌年7月、大陸会議はアメリカ独立宣言を出す。

アメリカ独立宣言に関わる図版:United States Declaration of Independence
アメリカ独立宣言Wikimedia Commons original: w:Second Continental Congress ; reproduction: William Stone · Public domain

戦いには、あまり勝っていない。1776年、ニューヨークでイギリス軍に大敗し、ニュージャージーを退却し続けた。兵は契約の期限が切れると帰ってしまう。その年のクリスマスの夜、氷の浮かぶデラウェア川を渡り、トレントンのドイツ人傭兵を奇襲して勝った。小さな勝利だったが、崩れかけた士気を立て直した。

1777年から翌年の冬、フィラデルフィア近くのヴァレー・フォージで野営した軍は、食料も衣服も足りず、2000人近くが病で死んだとされる。それでもワシントンは軍を保ち、プロイセン出身の士官シュトイベンの訓練で兵を鍛え直した。負けても軍を保ち続けたことが、勝因とされる。1778年にフランスが独立側について参戦し、1781年、フランスの陸軍と艦隊の協力で、ヴァージニアのヨークタウンの戦いに勝った。これが事実上の決着になった。

ヨークタウンの戦いに関わる図版:Surrender of Lord Cornwallis
ヨークタウンの戦いWikimedia Commons John Trumbull · Public domain

戦争が終わったとき、軍が彼を王にしようという動きがあった。断った。1783年、給料の未払いに怒った士官たちが議会への反乱を企てたとき、ワシントンは集会に現れ、手紙を読み上げようとして眼鏡を取り出し、私は国に仕えて白髪になり、いまは目も見えなくなりつつある、と言った。士官たちの多くが涙を流し、反乱は収まったと伝えられる。

そして、軍の指揮権を議会に返上して帰郷した。イギリス国王ジョージ3世は、それを聞いて、もし本当に退くなら世界で最も偉大な人物だ、と言ったと伝わる。

1772年にチャールズ・ウィルソン・ピールによって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。
1772年にチャールズ・ウィルソン・ピールによって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。Wikimedia Commons Charles Willson Peale · Public domain

だが、独立した13の州をゆるく束ねるだけの仕組みは、税も取れず、うまく働かなかった。1787年、フィラデルフィアで新しい憲法を作る会議が開かれ、ワシントンが議長を務めた。強い大統領という職は、彼が就くことを前提に設計されたとも言われる。アメリカ合衆国憲法の制定のもとで、1789年、選挙人の全員一致で初代大統領に選ばれた。

政権では、財務長官ハミルトンと国務長官トマス・ジェファソンが、強い中央政府か州の権利か、イギリス寄りかフランス寄りかで激しく対立した。ワシントンはどちらの党派にも属さないことにこだわり、フランス革命の戦争には中立を宣言した。ウイスキーへの課税に反発した反乱には、自ら軍を率いて出向いている。

マーサ・ダンドリッジ・カスティス
マーサ・ダンドリッジ・カスティスWikimedia Commons Rembrandt Peale · Public domain

初代大統領になり、二期で退いた。三期目を求められて断ったことが、その後の慣例になる。退任にあたって発表した告別の辞では、党派の争いと、外国との深入りした同盟の危険を警告した。憲法で任期が制限されるのは、150年後になる。

1799年12月14日、雪の中を馬で農園を見回った後に喉の病にかかり、当時の治療として大量の血を抜かれ、67歳で死んだ。入れ歯をしていたことはよく知られるが、木製ではなく、象牙や人や動物の歯で作られていた。少年時代に桜の木を切って正直に謝ったという逸話は、死後に伝記作家が作った話である。

デラウェア川を越えるワシントン
デラウェア川を越えるワシントンWikimedia Commons Emanuel Leutze · Public domain

一方で、農園には300人余りの奴隷がいた。そのうち彼自身が所有していた123人については、遺言で、妻の死後に解放するよう指示している。建国の指導者の中で奴隷を解放したのは彼だけだったが、生前に解放することはなかった。自由の国を作った人が、自由を奪う制度の上に暮らしていた。その矛盾は、のちに国を割る戦争まで持ち越される。

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