できごと

庚午年籍

The Kogo year registers
AD670年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐突厥吐蕃タイ系の諸王国アイヌKamarupa真臘ドヴァーラヴァティー扶南日本新羅チャンパAD670年飛鳥
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD670年の版図を描いています(14勢力)。

概要

白村江で敗れた天智天皇が、全国の民を戸ごとに登録させた。姓と名と年齢と続柄。これに基づいて口分田を配り、租庸調と兵役を課す。日本で最初の全国的な戸籍とされ、氏姓の根本台帳として永久保存が命じられた(のちに失われた)。数えられることは、土地を与えられることであり、同時に税と徴兵の名簿に載ることでもあった。逃亡した者を追う仕組みでもあり、8世紀の戸籍には、実態と合わない女性ばかりの戸が並ぶ(兵役逃れのための偽籍)。

場所

飛鳥
34.47°N 135.82°E · 日本・奈良県

本文

663年、朝鮮半島の西岸、白村江の河口で、倭国と百済の遺臣の連合軍は、唐と新羅の水軍に大敗した(白村江の戦い)。百済の再興は絶たれ、倭国は半島から手を引いた。そして、次は唐と新羅が海を渡って攻めてくるかもしれない、という恐れが残った。

国の舵を取っていた中大兄皇子、のちの天智天皇(中大兄皇子)は、守りを固めた。対馬・壱岐・筑紫に防人と、のろしを上げる烽を置き、大宰府の前には大きな堤の水城を築き、大野城など朝鮮式の山城を西日本の各地に造った。667年には都を近江の大津宮へ移し、翌年に即位している。

戸籍証明書の見本(2025年以前の形式)
戸籍証明書の見本(2025年以前の形式)Wikimedia Commons Wakamin / わかみん · Public domain

守りと同時に、国の仕組みそのものを作り直す必要があった。唐の大軍に対抗するには、全国から兵と物資を集められなければならない。そのためにはまず、国にどれだけの人がいて、どこに住み、誰が働き手で誰が兵になれるのかを知らなければならない。人を数えることが、改革の土台になった。

670年、干支でいう庚午の年に、全国の戸籍が作られた。庚午年籍である。『日本書紀』は天智天皇9年2月の条に、戸籍を造り、盗賊と浮浪とを取り締まった、と短く記すだけだ。それ以前にも、一部の地域や渡来人などを登録した籍はあったと考えられているが、全国にわたって民を戸ごとに登録したものとしては、これが最初とされる。

皇統譜の表紙
皇統譜の表紙Wikimedia Commons Imperial Household Agency · Public domain

原本は残っていないため、中身は後の戸籍や文書から推し量るしかない。戸ごとに戸主と家族の名が並び、性別、年齢、戸主との続き柄が書かれていたとみられる。どの氏に属し、どんな姓(かばね)を持つかも記された。誰がどの家の者で、どの身分にあたるかを、国が一枚の台帳で押さえたことになる。

この台帳は、のちの律令の国家の仕組みの出発点になった。戸籍に載った6歳以上の男女には、口分田と呼ばれる田が配られる。男には2段、女にはその3分の2で、死ねば国に返す。6年ごとに戸籍を作り直し、田を配り直す班田収授である。そのためには、誰が生きていて何歳なのかを知らなければならない。その見返りに、民は稲を納める租、都での労役か布で代える庸、地方の産物を納める調を負い、成人の男は兵士にも取られた。数えられることは、土地を与えられることであり、同時に税と兵役の名簿に載ることでもあった。

もう一つの役目が、逃亡を防ぐことだった。書紀の言う「浮浪」とは、本籍の土地を離れて他所へ流れる者のことである。籍に載った者がそこにいなければ、追って連れ戻す。戸籍は人を土地に結びつける綱でもあった。

庚午年籍には、特別な扱いが与えられた。ふつうの戸籍は6年ごとに作り直され、30年たつと捨てられる。しかし、701年の大宝律令は、庚午年籍だけは永久に保存するよう定めた。氏と姓の根本の台帳とされたからである。奈良時代から平安時代の初めにかけて、自分の家は本来この姓だ、あるいは自分は奴婢ではなく良民だ、という訴えが起きるたびに、庚午年籍にさかのぼって確かめた記録がある。それでも原本は、いつのころか失われた。

いま残る最も古い戸籍は、702年(大宝2年)のもので、美濃・筑前・豊前・豊後の国の戸籍の一部が奈良の正倉院に伝わっている。紙が貴重だったため、役目を終えた戸籍の裏が写経所の帳簿に使われ、そのおかげで残ったのである。

時代が下ると、戸籍には奇妙なものが現れる。902年(延喜2年)の阿波国のある郷の戸籍では、435人のうち男が59人、女が376人と記されている。生まれる子の男女の比を考えれば、ありえない数字である。理由ははっきりしている。重い税と兵役を負うのは男で、女はほとんど負わない。そこで男の子が生まれても女として届け、生きている男を死んだことにし、年齢を偽って課役の対象から外した。偽籍と呼ばれる。このころには班田そのものが滞り、戸籍は田を配る台帳ではなく、税を取る台帳としてしか働いていなかった。田がもらえないなら、正直に届ける理由も無かった。

籍に縛られることを嫌って、本籍の地を離れる人も増え続けた。国司は連れ戻すよう命じられたが、追いつかなかった。743年の墾田永年私財法で、新しく開いた田を私有にすることが認められると、すべての田を国が配るという原則は崩れていった。10世紀に入ると班田は行われなくなり、税は人ではなく、名(みょう)と呼ばれる田の単位にかけられるようになる。人を数える戸籍は、作られなくなった。

日本の国が再び全国の人を数え直すのは、ずっと後のことである。豊臣秀吉の太閤検地は土地とその耕作者を帳面に記し、江戸時代には寺が檀家を記した宗門人別改帳が、事実上の戸籍の役を果たした。明治に入ると1872年に壬申戸籍が作られ、全国の民を家ごとに登録した。

いまの日本の戸籍は、家族を単位にして続き柄を記し、婚姻や離婚や養子縁組の履歴を残す仕組みで、世界でも珍しいものになっている。その遠い始まりは、白村江で敗れた国が、唐にならって民を数え上げようとした670年にある。

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