ワーテルローの戦い
概要
ナポレオンが最終的に敗れた。ヨーロッパは秩序の回復を図るが、革命の思想は消えない。
場所
50.68°N 4.41°E · ベルギー
関わった人(1)
ナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · 敗者本文
1815年2月26日、地中海のエルバ島に流されていたナポレオン・ボナパルトは、千人ほどの兵を連れて島を抜け出した。3月1日に南フランスに上陸し、討伐に向かった軍は次々に寝返った。3月20日、ナポレオンはパリに戻る。王ルイ18世は逃げ出した。ウィーンでは、ナポレオン後のヨーロッパを話し合う会議(ウィーン会議)が開かれていたが、各国はただちに彼を「法の外にある者」と宣言し、再び同盟を組んだ。後に「百日天下」と呼ばれる時間の始まりである。
ナポレオンは、自分はもう征服を求めない、平和を望む、と各国に伝えた。しかし、20年あまり戦い続けてきた相手の言葉を信じる国は無かった。ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスはそれぞれ大軍を動かし、夏のうちにフランスへ攻め込む手はずを整えた。ナポレオンは急いで兵を集めたが、ナポレオンのロシア遠征で失った古参の兵と将校は戻らなかった。

ナポレオンが勝つには、各国の大軍が集まる前に、近くにいる敵を一つずつ叩くしかなかった。ベルギーには、イギリスのウェリントン公が率いるイギリス・オランダ・ドイツ諸邦の連合軍と、ブリュッヒャーが率いるプロイセン軍がいた。6月15日、ナポレオンは国境を越え、両軍の間に割って入った。16日、リニーでプロイセン軍を破り、同じ日にカトル・ブラでウェリントン軍とも戦った。翌17日、ナポレオンはグルーシー元帥に3万あまりの兵を与えてプロイセン軍を追わせ、自らはウェリントン軍を追った。
6月18日の朝、両軍はブリュッセルの南、ワーテルロー村の近くで向かい合った。ナポレオン軍は7万あまり、ウェリントン軍は6万8000ほどで、そのうちイギリス兵は3分の1ほどだった。前夜の大雨で地面がぬかるみ、ナポレオンは砲を動かしやすくなるのを待って、攻撃を昼近くまで遅らせた。ウェリントンは丘の稜線の裏側に兵を伏せ、前面の農場ウーグモンとラ・エー・サントを砦として守らせた。

戦いは一日じゅう続いた。昼過ぎ、デルロンの軍団の大攻撃はイギリス騎兵の突撃に押し返された。午後には、ネイ元帥が騎兵を繰り返し突入させたが、方陣を組んだ歩兵は崩れなかった。夕方、ラ・エー・サントが落ち、連合軍の中央は危うくなった。そのころ、東からプロイセン軍が戦場に入ってきた。リニーで敗れたプロイセン軍は、東へ逃げずに北のワーヴルへ退いて、ウェリントンとの連絡を保っていたのである。グルーシーはワーヴルでプロイセン軍の後衛と戦っていて、砲声を聞きながら戦場へは向かわなかった。
午後7時過ぎ、ナポレオンは最後の切り札である近衛兵を投入した。丘を登った近衛兵は、伏せていたイギリス兵の一斉射撃を受けて退き、「近衛が退くぞ」という叫びとともに、フランス軍全体が崩れた。ウェリントンとブリュッヒャーは、夜、ナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスという宿屋の近くで顔を合わせたと伝えられる。この一日で、両軍あわせて5万前後が死傷したとされる。

ウェリントンは後に、生涯でいちばん際どい勝負だった、と知人に語っている。プロイセン軍の到着がもう少し遅ければ、結果は違っていたかもしれない。戦いの名は、ウェリントンが本営を置いた村の名から取られた。プロイセン側では長く、ベル・アリアンスの戦いと呼ばれた。
ナポレオンの側の誤りとしては、攻撃の開始を遅らせたこと、グルーシーへの命令があいまいだったこと、ネイの騎兵突撃を歩兵や砲兵と組み合わせなかったことなどが挙げられる。ナポレオン自身は、のちにセントヘレナで、グルーシーとネイに責任を負わせる回想を残した。どの誤りが決定的だったかは、200年たった今も議論が続いている。戦場の跡には、1826年にオランダ王が築かせた獅子の像を頂く人工の丘があり、そこから当時の地形を見渡すことができる。

パリに戻ったナポレオンは6月22日に退位し、アメリカへ逃れようとしたが果たせず、7月にイギリスの軍艦に身を投じた。今度は南大西洋の孤島セントヘレナに送られ、1821年5月、そこで51歳で死んだ。死因は胃がんとみるのが有力で、ヒ素による毒殺説も唱えられたが、髪の毛の分析などからは否定的な見方が多い。
ワーテルローの後、ヨーロッパはウィーン会議の取り決めのもとで、王たちの秩序を取り戻そうとした。それでも、ナポレオンが各地に持ち込んだもの、法の前の平等をうたうナポレオン法典や、国民を単位として国を考える発想は消えなかった。フランス革命から四半世紀続いた戦争の時代は、この一日で幕を下ろした。