アルビジョア十字軍

概要
南フランスのカタリ派に対して、教皇が十字軍を呼んだ。ベジエ。「全員殺せ。神が自分の者を選り分ける」。2万人。北の騎士が南の土地を取った。20年。トゥールーズは王のものになり、オック語の文化は終わり、異端審問が制度になった。
場所
43.34°N 3.22°E · フランス
本文
1209年7月22日、南フランスの町ベジエが、北から来た十字軍に攻め落とされた。十字軍が討とうとしていたのは、異教徒ではなく、同じキリスト教徒の中の「異端」、カタリ派だった。町に住む者の大半はカトリックの信者だったが、十字軍は町に入ると、教会に逃げ込んだ人びとまで殺し尽くした。教皇が呼びかけたこの「アルビジョア十字軍」は、20年にわたって南フランスを荒らし、豊かな南の土地と文化を北のフランス王国に飲み込ませることになった。
カタリ派という名は、ギリシア語の「清い者」から来たとされる。彼らは世界を二つの原理の争いとして見た。目に見えない霊の世界は善い神が作ったが、肉体や物質からなるこの世は悪い原理が作ったものだ、というのである。人の魂は肉体に閉じ込められた天使であり、救われるには物質の世界から離れなければならない。信者の中で、「救慰礼(コンソラメントゥム)」と呼ばれる按手の儀式を受けた者は「完徳者」となり、肉を食べず、結婚せず、財産を持たずに、厳しい禁欲の暮らしを送った。普通の信者は、死の間際にこの儀式を受ければ救われるとされた。

12世紀、この教えは北イタリアと南フランスのラングドック地方に広まった。ラングドックはトゥールーズ伯や、ベジエやカルカソンヌを治めるトランカヴェル家などの諸侯が並び立つ土地で、地中海の交易で栄え、オック語で愛を歌うトルバドゥールの歌が宮廷を彩っていた。貴族の中には、カタリ派の完徳者を保護し、自分の家族を信者にする者も少なくなかった。一方、カトリックの聖職者は富と怠惰を批判され、人びとの尊敬を失っていた。完徳者たちの清貧な暮らしは、それと際立った対比をなしていた。
教会はまず説得を試みた。シトー会の修道士たちや、スペインから来た聖ドミニコ(ドミニコ)が、ラングドックの町々を回って説教し、カタリ派と公開の討論をした。のちのドミニコ会(ドミニコ会の認可)は、この活動から生まれている。だが成果は乏しかった。1208年1月、教皇の特使ピエール・ド・カステルノーが、トゥールーズ伯レーモン6世と激しく対立した直後に、伯の家臣と疑われる男に殺された。教皇インノケンティウス3世は、北フランスの諸侯に十字軍を呼びかけた。40日間従軍すれば、聖地への十字軍と同じように罪の償いが許される。異端者とそれをかばう者の土地は奪ってよい。遠い聖地へ行かずに、近くで救いと土地の両方を得られる戦いだった。
1209年の夏、北フランスの貴族と騎士の大軍が南下した。ベジエの町は、町の中のカタリ派の信者を引き渡すよう求められたが、拒んだ。十字軍の雑兵たちが不意に城壁を破って町になだれ込むと、虐殺が始まった。十字軍を率いていたシトー会の総長アルノー・アモリーは、カトリックと異端をどう見分ければよいかと問われて、皆殺しにせよ、神はご自分の者を知っておられる、と答えたと伝えられる。ただしこの言葉は、20年ほど後にドイツの修道士が書き残した逸話の中にあるもので、本当に言ったかどうかは分からない。アモリー自身は教皇への報告で、2万人近くを殺したと書いたが、町の大きさから見て誇張とされる。それでも、町の住民の多くが殺されたことは確かだ。
8月には、堅固な城塞都市カルカソンヌが降伏した。領主のレーモン=ロジェ・トランカヴェルは交渉の場で捕えられ、まもなく獄中で死んだ。奪った土地を治める者として選ばれたのが、北フランスの小貴族シモン・ド・モンフォールだった。彼は有能で、信仰に燃え、そして容赦がなかった。1210年、ミネルヴの町では140人ほどの完徳者が、信仰を捨てることを拒んで火に焼かれた。翌年のラヴォールでは400人ほどが焼かれ、町を守った城主の妹は井戸に投げ込まれて石で埋められた。ブラムでは、捕えた守備兵100人の目をつぶし鼻をそいで、一人だけ片目を残し、道案内として隣の城へ送らせたと伝えられる。

南の諸侯たちも黙ってはいなかった。1213年、トゥールーズ伯の義理の兄弟でもあるアラゴン王ペドロ2世が、南の側について大軍を率いて山を越えてきた。だがトゥールーズに近いミュレの戦いで、シモンの少数の騎士たちの突撃にペドロは討たれ、南の軍は崩れた。1215年、ローマで開かれた大きな公会議は、トゥールーズ伯の領地をシモンに与えると決めた。
それでも南の抵抗は続いた。1216年、追われていたトゥールーズ伯の父子が戻ると、トゥールーズの町は彼らを迎え入れた。1218年6月、町を包囲していたシモンは、城壁の上から放たれた投石機の石を頭に受けて死んだ。当時の叙事詩は、その投石機を操っていたのは町の女たちだったと歌っている。息子のアモーリーには父ほどの力はなく、十字軍の征服地は次々に南の諸侯に取り返された。

決着をつけたのはフランス王だった。1226年、国王ルイ8世が自ら十字軍を率いて南下し、ラングドックの多くの町を従わせた。ルイ8世はその年に病死したが、1229年、トゥールーズ伯レーモン7世はパリで講和を結ばされた。伯は娘を幼い国王ルイ9世の弟と結婚させ、伯の死後、領地はその夫婦を通じて国王の家に渡ることになった。1271年、トゥールーズ伯領はフランスの王領に組み込まれた。北の王国はこうして、地中海にまで届く国になった。
戦争の後に残されたのは、異端を一人ずつ探し出す仕組みだった。1229年、トゥールーズで開かれた教会会議は、各地の教区で異端者を探し出す手立てを定めた。1233年には、教皇グレゴリウス9世が、異端の取り調べをドミニコ会の修道士に委ねた。常設の異端審問の始まりである。審問官たちは村々を回り、人びとに互いを密告させ、証言を細かく書き取った。1244年、カタリ派の最後の拠点となっていたピレネーの山上の砦モンセギュールが10か月の包囲の末に落ち(モンセギュールの陥落)、信仰を捨てなかった200人あまりが、山の麓で一度に焼かれた。

その後もカタリ派は山あいの村々で細々と生き延びたが、14世紀の初めには、最後の完徳者の一人とされるベリバストが捕えられて焼かれ、姿を消した。そのころ、パミエの司教ジャック・フルニエは、ピレネーの小さな村モンタイユーの住民を何年にもわたって取り調べ、その記録を詳しく残した(モンタイユーの異端審問)。20世紀の歴史家ル・ロワ・ラデュリは、この記録から中世の村人の暮らしと心を生き生きと描き出した。異端を滅ぼすための記録が、滅ぼされた人びとの声を今に伝えている。
オック語の文学も、トルバドゥールの宮廷文化も、この戦争を境に衰えていった。南フランスの人びとの間では、北による征服の記憶が長く語り継がれた。今、ラングドックの山の上に残る城の廃墟は「カタリ派の城」と呼ばれて観光地になり、土産物屋には独特の形の十字架が並んでいる。だがその城の多くは、実際にはカタリ派が滅びた後、フランス王が新しい国境を守るために築き直したものである。