できごと

ブルキナファソの改名と改革

Sankara renames Upper Volta
AD1984年8月4日
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1984年8月4日の版図を描いています(44勢力)。

概要

植民地が付けた地理の名を、「まっすぐな人々の国」に改めた。4年で予防接種と識字と植林を進め、自分の給与を下げ、側近のクーデターで殺された。

場所

ワガドゥグー
12.37°N -1.52°E · ブルキナファソ

関わった人(1)

トマ・サンカラAD1949年12月21日–AD1987年10月15日 · 大統領

本文

西アフリカの内陸、サハラ砂漠の南の縁に、海を持たない国がある。フランスが植民地にしていたころ、この土地はヴォルタ川の上流にあることから「オートボルタ(上ヴォルタ)」と呼ばれていた。住む人びとの歴史や言葉とは関係なく、地図の上の川の位置から付けられた名前である。1960年、アフリカの年に独立したあとも、その名は変わらなかった。国の大半は乾いたサバンナで、平均寿命は40歳台、子どもの多くが5歳まで生きられず、読み書きのできる人は1割ほどしかいなかった。独立後の20年あまりで、クーデターが何度も繰り返された。

トマ・サンカラは1949年、北部の町ヤコで、元兵士の父のもとに生まれた。軍人の道に進み、マダガスカルの士官学校で学んだ。1974年、隣国マリとの国境紛争で手柄を立てて名を知られる。ギターを弾き、オートバイを乗り回す若い将校は、兵舎の外でも人気があった。1981年、軍事政権の情報担当の閣僚に任じられたが、言論を抑える政権に抗議して、テレビの生放送の中で辞任を表明した。1983年には首相になったものの、数か月で逮捕される。その年の8月4日、同僚の将校ブレーズ・コンパオレらが兵を挙げて政権を倒し、サンカラは33歳で国家元首になった。

ハーレムでのトマ・サンカラ(1984年)
ハーレムでのトマ・サンカラ(1984年)Wikimedia Commons The Militant/ Ernest Harsch · Public domain

ちょうど1年後の1984年8月4日、サンカラは国の名を「ブルキナファソ」に改めた。モシ人の言葉で「高潔な、まっすぐな人びと」を意味する「ブルキナ」と、ジュラ語で「父祖の地」を意味する「ファソ」を組み合わせ、国民の呼び名にはフルベ語の接尾辞をつけて「ブルキナベ」とした。国の主な言葉から一つずつ取り、どの民族のものでもない名前にしたのである。国歌と国旗も新しくした。

改革は矢継ぎ早だった。1984年の終わりには、「ワクチン・コマンド」と名づけた運動で、2週間ほどのあいだに250万人の子どもにはしか、髄膜炎、黄熱病の予防接種を行い、世界保健機関から称えられた。村ごとに人びとが手を出し合って学校と診療所を建て、読み書きの運動を広げた。サハラの砂漠化を食い止めるため、1000万本の木を植える運動を起こし、結婚や出産などの祝いごとに木を植えることを勧めた。大地主の土地を国のものにし、農民に分け直した。

マリとブルキナファソが争ったアガシェール地帯の国境紛争を示す地図
マリとブルキナファソが争ったアガシェール地帯の国境紛争を示す地図Wikimedia Commons unknown, US Department of State · Public domain

女性の地位に関しても、当時のアフリカでは際立った政策をとった。女性の割礼と強制的な結婚を禁じ、一夫多妻を抑えようとし、女性を閣僚や軍の幹部に登用した。男たちが市場へ買い物に行き、女性の日々の苦労を味わう日を設けたこともある。

サンカラ自身の暮らしは質素だった。大統領の給料を月450ドルほどに下げ、閣僚の公用車のメルセデスを売り払って、国内で最も安い小型の大衆車に替えさせた。役人の飛行機の席は普通席にした。公の場に自分の肖像を掲げることを禁じ、その理由を「この国には700万人のトマ・サンカラがいるのだから」と語ったと伝えられる。

一方で、その政治には強い影の面もあった。サンカラは各地に「革命防衛委員会」を作らせたが、委員会はしばしば住民を見張り、脅す組織になった。労働組合は抑えられ、ストライキに入った教員は大量に解雇された。旧政権の人びとを裁く人民革命法廷も開かれ、新聞は自由を失った。急な改革は、伝統的な首長や都市の中間層、軍の一部の反発を招いていた。

1987年7月、アフリカ統一機構の首脳会議の演壇で、サンカラは各国に向けて、旧宗主国と国際金融機関への対外債務の支払いを拒もうと呼びかけた。借金は植民地支配の続きであり、返せないし、返すべきでもない、と。もしブルキナファソだけが支払いを拒めば、次の会議に自分はいないだろう、とも言った(債務を帳消しにする運動)。

その3か月後の1987年10月15日、首都ワガドゥグの会議の場に兵士が押し入り、サンカラは12人の側近とともに射殺された。37歳だった。権力を握ったのは、彼の盟友だったコンパオレである。遺体はひそかに埋められ、死亡証明書には「自然死」と書かれた。コンパオレはその後27年間国を治め、2014年に民衆の抗議で国を追われた。2022年、ブルキナファソの軍事法廷は、亡命中のコンパオレに暗殺への関与で終身刑を言い渡している。

サンカラの時代は4年しか続かなかった。しかし、彼の名と演説は、アフリカの若い世代に「アフリカのチェ・ゲバラ」として語り継がれ(チェ・ゲバラ)、彼が選んだ国の名はいまも変わっていない。

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