コンゴ自由国
概要
国ではなく、ベルギー王レオポルド2世の私有地だった。ゴムの割当を満たさない村の手を切り落とし、人口の半分近くが失われたとされる。
場所
-4.44°N 15.27°E · コンゴ民主共和国
関わった人(1)
レオポルド2世AD1835年4月9日–AD1909年12月17日 · 私有した本文
ベルギー王レオポルド2世は、小さな国の王であることに満足しなかった。植民地を持てば国も王も豊かになると考え、即位前から世界の地図を見て候補を探していた。ベルギーの議会と国民は植民地に関心がなかった。それなら自分一人で手に入れればいい。
1876年、王はブリュッセルに地理学者や探検家を集め、アフリカの探検と奴隷貿易の撲滅、文明の普及を掲げる国際的な協会を作った。人道と科学の看板の下で、王は探検家ヘンリー・モートン・スタンリーを雇い、1879年から5年かけてコンゴ川の流域に拠点を築かせた。スタンリーは各地の首長と数百の条約を結んだが、文字の読めない首長たちが、自分の土地と労働を差し出す内容を理解していたとは考えにくい。
1884年から翌年にかけてのベルリン会議とアフリカ分割と前後して、王は列強と個別に交渉を重ね、コンゴ盆地を自分の支配する「自由国」として認めさせた。自由貿易を保障し、現地の人びとの暮らしを守ると約束したうえでのことだった。1885年、コンゴ自由国が生まれる。それはベルギーという国の植民地ではなく、王一人のものだった。ベルギー議会は、王が二つの国の君主を兼ねることを認めただけだった。面積はベルギーの80倍近くになる。

初めの数年、自由国の利益は象牙が中心で、王の財政はむしろ苦しかった。流れを変えたのはゴムだった。1888年に空気入りのタイヤが発明され、安全型自転車の登場の普及と自動車の登場とともに、1890年代にゴムの需要が急に伸びた。コンゴの森には、野生のゴムの蔓が豊富にあった。王は国土の大部分を国の土地と宣言し、その産物を独占し、一部を利権会社に分け与えた。
ゴムは栽培ではなく、森の奥の蔓に傷をつけて樹液を集めた。村ごとに集める量の割当が課された。割当を満たさない村には、現地の兵を集めた公安軍が送られた。女性や子どもが人質に取られ、男たちがゴムを持って戻るまで閉じ込められた。逆らえば村は焼かれ、人が殺された。兵は弾を無駄にしていないことを示すために、殺した者の手を切り落として持ち帰ることを求められたとされる。生きている人の手が切られた例も、宣教師の写真に残っている。
人口がどれだけ減ったのかは分からない。殺された人だけでなく、ゴム集めに駆り出されて畑を耕せなくなった村の飢え、強制された移動の中で広がった眠り病などの病、出生の減少が重なった。当時、誰も人口を数えていなかった。後の推計では数百万人から、人口の半分にあたる1000万人という数まであるが、根拠となる数字が乏しく、研究者のあいだで幅が大きい。
告発は、思いがけない場所から始まった。リヴァプールの船会社の事務員だったエドモンド・モレルは、ベルギーのアントワープ港で、コンゴから届く船には大量のゴムと象牙が積まれているのに、コンゴへ向かう船にはほとんど兵器と弾薬しか積まれていないことに気づいた。商品の代価が払われていない。それは強制労働しか意味しない。モレルは仕事を辞めて告発を始め、1904年にコンゴ改革協会を作った。同じ年、イギリスの領事ロジャー・ケースメントが現地を調べた報告書を出し、各地の惨状を伝えた。それより前の1890年には、アフリカ系アメリカ人の歴史家ジョージ・ワシントン・ウィリアムズが、王に宛てた公開書簡で実態を告発している。1890年にコンゴ川の船で働いたジョゼフ・コンラッドは、その体験をもとに小説『闇の奥』を書いた。
国際的な非難が高まり、王は調査委員会を送らざるを得なくなった。委員会も虐待の多くを認めた。1908年、ベルギー政府が王から自由国を引き取り、ベルギー領コンゴとした。王は引き渡しの前に、自由国の記録の多くを焼かせたと伝えられる。翌1909年に王は死んだ。ゴムで得た富は、ブリュッセルの記念門や宮殿の改築、王の別荘に注がれていた。
ベルギー領になってからも、強制的な労働や収奪は形を変えて続いた。1960年にコンゴは独立したが、すぐにコンゴ動乱に陥り、1965年には軍人モブツが権力を握った(モブツの独裁)。

ベルギーでは長いあいだ、王はコンゴを開いた人物として讃えられ、各地に像が立っていた。植民地の歴史を見直す動きの中で、2020年にはいくつもの像が抗議で塗料をかけられ、撤去されるものも出た。同じ年の6月、コンゴ独立60年にあたって、ベルギー国王フィリップはコンゴの大統領に宛てた書簡で、自由国の時代の暴力と残虐な行為に深い遺憾の意を表した。謝罪の言葉は使われなかった。
アセモグルとロビンソンの物語「『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史」は、コンゴ自由国を、一部の人のために多数から奪う「収奪的な制度」の極端な例として扱う。そして、独立後のモブツの統治が、国を個人の財産のように扱うその形を引き継いだと論じる。15世紀にコンゴ王国とポルトガルの接触で始まったヨーロッパとの接触から、奴隷貿易、王の私有地、植民地、独裁へ。支配者が替わっても、奪う仕組みは引き継がれた、という筋になる。