人物

マクシミリアン・ロベスピエール

Maximilien Robespierre
AD1758年5月6日 – AD1794年7月28日(享年36)
フランス重要度 4

概要

「清廉の人」と呼ばれた弁護士が、死刑廃止を主張し、やがて恐怖政治を主導した。徳のない恐怖は有害で、恐怖のない徳は無力だ、と演説している。

関わったできごと(2)

フランス革命1789年 · のちに恐怖政治を主導する恐怖政治AD1793年9月 · 主導。最後に処刑された

本文

1758年5月6日、北フランスの町アラスに生まれた。父は弁護士だった。6歳のとき母が出産で亡くなり、まもなく父は家族を残して姿を消した。マクシミリアンと弟妹は、祖父母とおばたちに引き取られて育った。長男として弟妹の面倒を見る、まじめで内気な少年だったという。

マクシミリアン・ロベスピエールの肖像
マクシミリアン・ロベスピエールの肖像Wikimedia Commons Unidentified painter · CC0

成績が良く、奨学金を得てパリの名門校ルイ=ル=グラン学院に学んだ。同じ学校には、のちの革命家カミーユ・デムーランもいた。ここでルソー(ジャン=ジャック・ルソー)の著作に出会い、深く心酔した。人は生まれながらに善であり、社会がそれを損なう、という考えは、生涯の土台になった。

弁護士として故郷アラスに戻り、貧しい依頼人の訴えを安く引き受けたと伝えられる。家の屋根に避雷針を立てた人が、危険だとして撤去を命じられた事件では、新しい科学の側に立って弁護し、勝った。教会の裁判所の判事も務めたが、死刑の判決を下さなければならなくなったとき、ひどく苦しんだという話も残る。

1789年、全国三部会(フランス革命)の平民の代表に選ばれ、パリへ出た。演説はうまくなかった。背が低く、声が小さく、原稿を読み上げ、最初は笑われることも多かった。だが一度も意見を曲げず、賄賂にも贅沢にも無縁だった。財産による選挙権の制限に反対して、すべての男性に投票権を与えよと求め、1791年には死刑の廃止を議会で訴えた。人々は彼を「清廉の人」と呼んだ。パリでは大工の一家の家に間借りし、質素に暮らし続けた。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1792年、ヨーロッパの君主国との戦争に、多くの議員が熱狂する中で反対した。外へ自由を広げる戦争は、内の敵を利するだけだという理由だった。戦争が始まり、8月に王権が停止されると、パリから国民公会の議員に選ばれた。国王の裁判では、裁判そのものを否定し、「祖国が生きるために、ルイは死ななければならない」と演説した。死刑の廃止を説いた人が、王の死を求めたのである(ルイ16世の処刑)。

1793年、国は内からも外からも崩れかけていた。外国の軍が国境に迫り、西部では王党派の反乱が起き、パンの値は上がり続けた。6月、パリの民衆の圧力で、穏健派のジロンド派の議員たちが議会から追放された。7月、ロベスピエールは国の舵取りを担う公安委員会に入った。

それから1年あまりが、恐怖政治と呼ばれる時代である。疑わしい者を捕らえる法が作られ、革命裁判所は次々と死刑を言い渡した。王妃マリー・アントワネットも、ジロンド派の議員たちも断頭台に送られた。1794年2月、ロベスピエールは議会で演説した。平和のときの民衆の政府の原動力は徳であり、革命のときのそれは徳と恐怖である。徳のない恐怖は有害で、恐怖のない徳は無力だ、と。

恐怖政治に関わる図版:Octobre 1793, supplice de 9 émigrés
恐怖政治Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

革命の仲間たちにも刃は向けられた。3月には、より過激な一派を処刑した。4月には、恐怖政治を緩めよと唱えたダントンと、かつての学友デムーランも処刑された。ロベスピエールはデムーランの子の名付け親だった。6月にはキリスト教に代わる「最高存在」の祭典を自ら主宰し、壇上に立つ姿が、神にでもなるつもりかと反発を買った。同じ月、被告に弁護人も証人も認めず、判決を無罪か死刑かの二つに絞る法律が作られた。パリでの処刑の数は、それから7週間ほどで1300を超えた。

7月26日、ロベスピエールは議会で、名を挙げずに裏切り者の粛清を予告する演説をした。自分の名が含まれているかもしれないと恐れた議員たちは、その夜のうちに手を結んだ。翌27日、議会で演説しようとすると、「暴君を倒せ」という叫びにかき消され、逮捕された。パリ市庁舎に逃れたが、夜中に議会の兵が踏み込み、その混乱の中で拳銃の弾があごを砕いた。自殺を図ったとも、兵に撃たれたとも言われる。

ロベスピエールの出生証明書(1758年)。
ロベスピエールの出生証明書(1758年)。Wikimedia Commons Archives départementales du Pas-de-Calais. · Public domain

28日、法の保護の外に置かれた者として、裁判を経ずに、仲間とともに断頭台にかけられた。36歳だった。この政変は、革命暦の月の名から「テルミドールの反動」と呼ばれる(十日の週)。恐怖政治は終わり、革命は保守の方向へ揺り戻した。

恐怖政治のもとで、裁判によって処刑された人はフランス全体でおよそ1万7千人、獄中や裁判なしで死んだ人を含めると、さらに多いとされる。ロベスピエールは長く血に飢えた独裁者として語られてきた。一方で、民衆の権利と平等を最後まで説き続けた革命家として擁護する歴史家もいる。弾圧の責任をすべて一人に負わせるのは、彼を倒した者たちが作った物語だという見方もある。理想のために人を殺してよいのか、という問いとともに、評価はいまも割れている。

動画(1)

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