リゴベルタ・メンチュウ
概要
キチェ・マヤの活動家。内戦下の先住民への弾圧を世界に伝え、ノーベル平和賞を受けた。証言の細部をめぐる論争もある。
関わったできごと(1)
メンチュウの証言AD1983年 · 証言本文
1959年1月、グアテマラ西部の高地、キチェ県ウスパンタンに近いチメルという村で、キチェ系マヤの農民の家に生まれた。両親は村の中心的な人物で、父のビセンテ・メンチュウは村の土地を守る運動の指導者、母は産婆と薬草の知識を持つ人だった。
一家の暮らしは、高地の小さなトウモロコシ畑と、太平洋岸の大農園(フィンカ)での出稼ぎを行き来するものだった。綿やコーヒーの収穫期になると、家族ごとトラックの荷台に詰め込まれて海岸へ下り、一日働いてもわずかな賃金しか得られない。彼女の証言によれば、兄弟の一人は農園で栄養失調のために死に、もう一人は農薬の散布で中毒死した。
グアテマラでは、古代の都市を築いた人びとの子孫であるマヤの人びと(マヤの諸都市)が人口の半分前後を占めながら、土地と富は少数の白人とラディーノ(スペイン系の文化を持つ人びと)に握られていた。1954年、土地改革を進めた政権がアメリカの関与したクーデターで倒されてから、国は軍の支配の下に置かれ、1960年からは政府軍と左派ゲリラの内戦が続いていた。1970年代の末になると、軍はゲリラを支援しているとみなした高地のマヤの村々を標的にし始める。
メンチュウの家族はその渦中にいた。父は農民の組織(農民統一委員会)の結成に加わり、土地の権利を求めて何度も投獄された。1979年、16歳の弟ペトロシニオが軍に捕らえられ、拷問の末に殺された。1980年1月、父は他の農民や学生とともに首都のスペイン大使館を占拠して弾圧を訴えたが、治安部隊が突入し、火災が起きて、大使館の中にいた37人が死んだ。父もその中にいた。同じ年、母も軍に捕らえられて殺された。
メンチュウ自身はカトリックの教会の活動と農民の運動に加わっていたが、身の危険が迫り、1981年にメキシコへ逃れた。それまでスペイン語はほとんど話せなかったと本人は言っている。
1982年、ヨーロッパを訪れていた彼女は、パリでベネズエラ出身の人類学者エリザベス・ブルゴス=ドゥブレの聞き取りを受けた。1週間にわたって語った内容がまとめられ、翌1983年、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』として出版される(メンチュウの証言)。村の暮らし、マヤの儀礼、大農園の労働、家族の死が一人称で語られたこの本は、多くの言語に訳され、グアテマラの内戦で何が起きているかを世界が知る主要な入口になった。
1992年、33歳でノーベル平和賞を受けた。先住民の権利と、民族の違いを越えた和解のために働いたことが理由とされた。コロンブスの到達から500年目にあたる年で、その節目に先住民の女性が選ばれたことには大きな意味があった。賞金で財団を作り、亡命先から帰国した。内戦は1996年の和平合意でようやく終わる。
1999年、国連の後押しで作られた歴史解明委員会は、内戦中の死者と行方不明者を20万人以上と推計し、その8割以上がマヤの人びとで、9割以上の暴力が国家の側によるものだったと報告した。一部の地域では、軍がマヤの集団に対してジェノサイド(集団殺害)にあたる行為をしたと認定している。
同じ1999年、アメリカの人類学者デヴィッド・ストールが、彼女の証言を現地で検証した本を出した。弟ペトロシニオが焼き殺される場面を家族で目撃したという記述は事実と合わない、彼女は読み書きを知らなかったと語っているが修道会の寄宿学校で教育を受けていた、父の土地の争いは地主との対立というより親族どうしの争いだった、などの点を指摘した。
論争は大きく報じられた。メンチュウは、あの本は自分一人の体験ではなく、共同体の人びとが経験したことを語ったものだと答え、学校の件については、隠れて生きるために経歴を伏せる必要があったと説明した。ノーベル賞の委員会は、賞を取り消す理由は無いと表明した。ストール自身も、軍による虐殺という大筋は否定していない。この論争は、一人の語りが共同体の声を代表する「証言文学」という形をどう読むべきか、という議論を学問の世界に広げた。
その後のメンチュウは、内戦中の虐殺の責任者を裁く運動を続けた。1999年にはスペインの裁判所に、元軍事政権の指導者たちをジェノサイドなどで訴えている。2013年、グアテマラの裁判所は元大統領のリオス・モントにジェノサイドの罪で有罪判決を出した(のちに手続き上の理由で取り消された)。2007年と2011年には自ら大統領選に立候補したが、得票はわずかにとどまった。
彼女の名は、先住民の権利が国際的な議題になった時代の象徴であると同時に、証言とは何かという問いの象徴にもなっている。