できごと

インダス川水利条約

Indus Waters Treaty
AD1960年9月19日
重要度 4
ソビエト連邦中国インドスーダンザイールモンゴルサウジアラビアイランリビアインドネシアチベットエチオピア帝国エジプトパキスタントルコアフガニスタンビルマソマリア中央アフリカ共和国ケニアイラクタイイエメンベトナムルーマニアオマーンマレーシアラオスウガンダシリアカンボジアネパールブルガリアギリシャエリトリアアラブ首長国連邦ヨルダンスリランカAD1960年9月19日カラチ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1960年9月19日の版図を描いています(38勢力)。

概要

インドとパキスタンが分かれたとき、国境はインダス川の支流を横切って引かれた。川の上流はインド側にあり、パキスタンの畑を潤す水の多くはインドを通って流れてくる。1948年、インドが用水路の水を止め、パキスタンは震え上がった。世界銀行が仲立ちに入り、九年の交渉の末、六つの川を東西に分けて、東の三つをインドに、西の三つをパキスタンに割り当てた。水を分け合うのではなく、川ごと分けたのである。条約は、その後の三度の戦争を越えて守られてきた。だが2025年、テロ事件を受けて、インドは条約の停止を宣言した。

場所

カラチ
24.86°N 67.00°E · パキスタン・シンド州

本文

1947年、インドとパキスタンは分かれて独立した(インド・パキスタン分離)。新しい国境は、パンジャーブ地方を横切って引かれた。パンジャーブとは「五つの川」を意味する。インダス川と、それに注ぐ支流が流れる土地である。困ったことに、川の上流の多くはインド側か、帰属をめぐって両国が争うことになるカシミールにあった(カシミール紛争の始まり)。一方、その水で潤う畑の多くは、下流のパキスタン側にあった。イギリスの統治時代に掘られた大きな用水路の網は、国境をまたいで張り巡らされていた。用水路の取水口はインド側に、潤す畑はパキスタン側に、ということが珍しくなかった。

1948年4月1日、インド側の東パンジャーブ州が、国境を越えてパキスタンへ流れる用水路の水を止めた。分離のときに結んだ暫定の取り決めが期限切れになったことが理由とされた。ちょうど作物を育てる大事な時期だった。パキスタンの畑は干上がりかけた。水は数週間後に戻されたが、パキスタンの人々は思い知らされた。自分たちの命綱である水は、敵対する相手の手の中にある。この恐れが、その後の交渉の出発点になった。

カラチの位置図
カラチの位置図Wikimedia Commons Farazilu · Public domain

1951年、アメリカのテネシー川流域開発公社の元総裁デイヴィッド・リリエンソールが両国を訪れ、雑誌に一つの提案を書いた。インダス川を一つの流域として、両国が共同で開発してはどうか、というものである。これを受けて世界銀行が仲立ちに乗り出した。しかし共同の開発はまとまらなかった。互いを信じていない国どうしが、同じ水路やダムを一緒に管理するのは無理だった。交渉は行き詰まり、世界銀行は別の道を示した。水を分け合うのではなく、川そのものを分けてしまうのである。

9年にわたる交渉の末、1960年9月19日、パキスタンのカラチで条約が署名された。署名したのはインドの首相ジャワハルラール・ネルーと、パキスタンの大統領アユーブ・ハーン、そして世界銀行の代表である。条約は、インダス水系の六つの主な川を東と西に分けた。東の三つ、ラーヴィー川、ビアース川、サトレジ川はインドが自由に使う。西の三つ、インダス川本流、ジェーラム川、チェナーブ川はパキスタンが使う。インドは西の川でも、水を大きく貯め込まないかたちの発電や、限られた灌漑などには使ってよいとされた。

19世紀末のD.J.サイエンス・カレッジ(英語版)
19世紀末のD.J.サイエンス・カレッジ(英語版)Wikimedia Commons https://www.flickr.com/photos/zainub/ · Public domain

東の川の水を失うパキスタンのためには、西の川から水を引く長い連絡用水路と、大きなダムを造ることになった。その費用は、インドが一部を負担し、世界銀行やアメリカ、イギリスなどの国々も資金を出した。こうして造られたのが、ジェーラム川のマングラ・ダムや、インダス川本流のタルベラ・ダムである。さらに両国はそれぞれ委員を出して常設の委員会を作り、毎年会って情報を交換し、揉め事を話し合うことにした。

水を分け合えば、毎年どれだけ流すかで揉める。川ごと分ければ、揉めるところが減る。この割り切りが、条約を長持ちさせた。その後、両国は1965年、1971年、1999年と三度にわたって戦った。それでも条約は破られなかった。戦争の間も、委員会がやりとりを続けたことがある。国と国の争いより水の約束のほうが長く続く例として、この条約は世界でたびたび引き合いに出されてきた。

揉め事が無かったわけではない。インドが西の川に発電用のダムを造るたびに、パキスタンは条約違反だと訴えた。チェナーブ川のバグリハール・ダムでは中立の専門家が、ジェーラム川の支流のキシャンガンガ計画では国際仲裁の場が判断を下した。条約が用意したこうした手続きが、揉め事を戦争ではなく議論の場に移してきた。一方で、気候の変化でヒマラヤの氷河が縮み、川の水量そのものが変わっていくという、条約が想定していなかった問題も見え始めていた。

2025年4月22日、インド側のカシミールのパハルガムで観光客らが襲われ、二十数人が殺される事件が起きた。インドはパキスタンが関わっていると非難し、翌日、条約の履行を停止すると宣言した。条約が結ばれてから65年で初めてのことである。パキスタンは、水を止めたり流れを変えたりすることは戦争行為と見なす、と強く反発した。条約には、一方の国だけでやめる手続きは書かれていない。インドがどこまで実際に流れを変えられるのか、この先どうなるのかは、まだ分からない。

一つの国の中で、州と州が水を分けたコロラド川協定でさえ、百年たっても揉め続けている。インダスでは、国と国が、しかも戦争を繰り返す国と国が水を分け、65年もちこたえた。それは水の約束が強かったからなのか、それとも水を止めることが、互いにとってあまりに恐ろしかったからなのか。その問いに、いま答えが迫られている。

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