シモン・ボリバル
概要
南米北部の独立を率いた。統一国家の夢は果たせず、いくつもの国に分かれる。
関わったできごと(1)
ラテンアメリカ諸国の独立1810年 · 指導本文
1783年7月24日、スペイン領ベネズエラのカラカスに生まれた。家は植民地生まれの白人(クリオーリョ)の中でも指折りの富豪で、カカオの農園と鉱山、多くの奴隷を持っていた。だが3歳で父を、9歳で母を亡くし、親戚や家庭教師の手で育てられた。教師の一人シモン・ロドリゲスは、ルソーのルソー『エミール』に心酔した変わり者で、少年に自由と自然の大切さを説いた。

16歳でスペインへ送られ、マドリードで教育を受けた。そこで出会った女性と18歳で結婚し、カラカスに連れて帰ったが、妻は8か月後に黄熱病で亡くなった。ボリバルは二度と結婚しないと誓い、生涯それを守った。のちに彼は、妻が生きていれば自分は政治の道に進まなかっただろう、と語っている。
悲しみを紛らわすように再びヨーロッパへ渡り、パリでナポレオン・ボナパルトが皇帝として戴冠するのを見た。1805年には、旧師ロドリゲスとローマの丘に登り、祖国をスペインの支配から解放するまで心も体も休めない、と誓ったと伝えられる。

機会は、遠いヨーロッパから来た。1808年、ナポレオンがスペインに攻め込んで王を退位させると、スペインの植民地では本国の権威が宙に浮いた。1810年、カラカスの有力者たちは自治の評議会を作り、ボリバルは援助を求めてロンドンへ渡った。そこで、長く独立運動を続けていた老革命家ミランダと会い、帰国を促した。1811年、ベネズエラは独立を宣言した。
最初の共和国は1年で崩れた。1812年3月、カラカスを大地震が襲い、王党派の聖職者たちはこれを神の罰だと説いた。スペイン軍が盛り返すと、ミランダは降伏した。ボリバルらは、ミランダを裏切り者とみなしてスペイン側に引き渡した。ミランダはスペインの牢で死んだ。この一件は、いまもボリバルの評価に影を落としている。

隣のヌエバ・グラナダ(いまのコロンビア)に逃れたボリバルは、軍を集めて1813年にベネズエラへ攻め込み、カラカスを奪い返して「解放者」の称号を受けた。このとき、スペイン人は降伏しなければ殺す、という「死に至る戦争」の布告を出している。だが翌年、平原の牧童たちからなる王党派の騎兵に打ち破られ、第二の共和国も消えた。逃れたジャマイカで、彼は「ジャマイカ書簡」を書き、南米の独立は必ず成ると論じた。
再起を助けたのは、独立したばかりの黒人共和国ハイチだった(ハイチ革命)。ハイチの大統領ペティオンは武器と船を与え、その代わりに、解放した土地の奴隷を自由にすることを求めた。ボリバルは約束し、奴隷の解放を宣言した。ただ、その実行は思うようには進まなかった。

ボリバルは戦い方を変えた。ベネズエラの海岸ではなく、オリノコ川流域の内陸に拠点を置き、王党派だった平原の騎兵たちを味方に引き入れた。そして1819年、雨季の平原を渡り、アンデスの高い峠を越えてヌエバ・グラナダへ攻め込んだ。兵士たちは軽装のまま凍えるような高地を進み、多くが寒さと高山病で倒れた。だが、敵が予想もしない方角から現れた軍は、8月7日、ボヤカの戦いでスペイン軍を破り、首都ボゴタに入った。
同じ年、ベネズエラとヌエバ・グラナダを合わせた共和国コロンビアの成立が宣言された。いまの歴史では「大コロンビア」と呼ばれる。1821年にはカラボボの戦いでベネズエラを解放し、翌年には副官のスクレがエクアドルを解放した。1822年、エクアドルの港町グアヤキルで、南から独立戦争を進めてきたホセ・デ・サン・マルティンと会談した。二人きりで何が話されたのかは記録に残っていない。会談の後、サン・マルティンは身を引き、ペルーの解放はボリバルに委ねられた。1824年、スクレがアヤクチョの戦いでスペイン軍の主力を破り、南米でのスペインの支配はほぼ終わった(ラテンアメリカ諸国の独立)。翌年、ペルー高地の新しい国は、解放者の名を取ってボリビアと名乗った。

ボリバルが夢見たのは、解放したスペイン語圏の国々が一つにまとまることだった。1826年にはパナマに各国の代表を招いて会議を開いたが、集まった国は少なく、結んだ条約もほとんど実を結ばなかった。足元の大コロンビアでも、ベネズエラの軍の実力者パエスが反旗を翻し、ボリバルは独裁的な権力で国をつなぎ止めようとした。ボリビアのために書いた憲法では、大統領を終身とした。かつての解放者は、今度は王になろうとしているのではないかと疑われるようになった。
1828年9月、ボゴタの宮殿で暗殺者たちに襲われた。愛人のマヌエラ・サエンスが刺客を引きつけている間に、ボリバルは窓から逃れて助かった。マヌエラは以後「解放者の解放者」と呼ばれる。

1830年、ボリバルは権力を手放した。ベネズエラとエクアドルは相次いで大コロンビアから離れ、国は三つに割れた。ボリバルはヨーロッパへ去るつもりで海岸の町サンタマルタまで来たが、結核が悪化し、12月17日、そこで亡くなった。47歳だった。死の直前の手紙に、革命に仕えた者は海を耕したようなものだ、と書いている。
死後、ボリバルは英雄になった。ベネズエラは国名に彼の名を入れ、通貨はボリバルと呼ばれ、南米の多くの町の中心広場に彼の像が立つ。独裁と共和政、解放と統一。彼が生前に抱えた矛盾は、その後のラテンアメリカの政治そのものの課題として残り続けた。