できごと

国連海洋法条約

The Law of the Sea Convention
AD1982年12月10日
重要度 5
カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国ブラジルメキシコペルーコロンビアベネズエラエクアドルガイアナスリナムニカラグアホンジュラスキューバグアテマラ仏領ギアナパナマAD1982年12月10日モンテゴ・ベイ
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概要

海は誰のものか。17世紀、グロティウスが自由な海を説き、セルデンが閉じられた海を説いた。長く、大砲の届く距離、およそ3海里が領海とされた。20世紀、海底の資源と漁業をめぐって主張が広がった。9年の交渉の末に採択され、ジャマイカのモンテゴ・ベイで署名が始まった条約が、領海12海里、排他的経済水域200海里、そして大陸棚の定義を決めた。深海底は人類の共同財産とされた。アメリカは、その部分を理由に、いまも批准していない。

場所

モンテゴ・ベイ
18.47°N -77.92°E · ジャマイカ

本文

海は誰のものか。この問いは、ヨーロッパの国々が世界の海へ乗り出した17世紀に、激しく争われた。15世紀末、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約で世界を二つに分け、それぞれの航路と海を独り占めしようとしていた。後から海に出たオランダやイングランドにとって、これは受け入れがたい主張だった。

1609年、オランダの法学者フーゴー・グロティウスは『自由海論』を出した。海は誰のものにもなりえない、と彼は説いた。海は囲い込めず、境界も作れず、使っても減らない。だから万人に開かれている。この本には現実の動機があった。若いグロティウスはオランダ東インド会社の設立の弁護を引き受けており、1603年にオランダの船がシンガポール海峡でポルトガルの商船を拿捕した事件を、法の上で正当化する必要があった。ポルトガルの独占を崩すことが、オランダの利益だったのである。彼はのちに戦争と平和の法を体系づけ(グロティウス『戦争と平和の法』)、国際法の父と呼ばれるようになる。

濃い青色で示した海域がフィリピンの群島水域。
濃い青色で示した海域がフィリピンの群島水域。Wikimedia Commons Roel Balingit (username: Namayan) ; addition of Benham Rise and Indo-PH EEZs: Ervin Malicdem ( schadow1 ) · CC BY 2.5

反論したのは、イングランドの法学者ジョン・セルデンだった。1635年の『閉鎖海論』で、彼は海も領有できると主張した。当時、オランダの漁船団がイングランドの沿岸で大量のニシンを獲っており、イングランドは周りの海に対する支配を主張したかった。開かれた海か、閉じられた海か。この対立は、その後300年以上、形を変えて続く。

18世紀の初め、オランダの法学者ビンケルスフークは、間を取る考えを示した。沿岸の国の支配は、陸から実際に力を及ぼせる範囲までは及ぶ。陸の武力が尽きるところで、領土の権力も尽きる、と彼は書いた。つまり、岸から大砲の弾が届く範囲である。この考えから、やがて領海は3海里、およそ5.6キロとする慣行が広まった。実際の大砲の届く距離はそれより短かったとも言われるが、切りのよい数字として使われ続けた。その外側の広い海は公海であり、誰もが自由に航行し、魚を獲ってよかった。

国際法上の海域区分を示す図
国際法上の海域区分を示す図Wikimedia Commons U.S. Department of State as modified by NOAA to add Three Nautical Mile Line · Public domain

20世紀に入ると、この前提が崩れた。一つは漁業である。蒸気やディーゼルの漁船、冷凍の設備、巨大な網によって、遠い国の船団が他国の沿岸にやって来て、魚を根こそぎ獲れるようになった。もう一つは海底の資源である。1930年代から、浅い海の底で石油を掘る技術が育った。その海底は誰のものなのか。

1945年9月、アメリカ大統領ハリー・トルーマンは、自国の沿岸に続く大陸棚の海底の資源は、アメリカの管轄に属すると一方的に宣言した。これが引き金になった。1952年には、チリ、ペルー、エクアドルが、岸から200海里までの海に対する権利を主張した。沖を流れる寒流がもたらす豊かな漁場を守り、外国の捕鯨船や漁船を締め出すためである。各国が3海里、6海里、12海里、200海里と、ばらばらに海の線を広げ始めた。

その中でも激しかったのが、アイスランドとイギリスのあいだのタラ戦争である。漁業に国の暮らしを頼るアイスランドは、1958年から1975年にかけて、自国の漁業の水域を12海里、50海里、200海里と段階的に広げた。イギリスはこれを認めず、漁船を守るために海軍の艦艇を送った。アイスランドの沿岸警備艇は、イギリスの漁船の網を特殊な刃物で切り、双方の船が体当たりを繰り返した。1976年、アイスランドはイギリスとの国交を一時断った。どちらもNATOの結成の加盟国だった。アイスランドが国内のアメリカ軍の基地の扱いをちらつかせると、冷戦のさなかの西側はそれを無視できず、最後はイギリスが引いた。200海里という線が、事実上認められていった。

国際社会は、海の秩序を条約で決めようとした。1958年、ジュネーヴで開かれた最初の国連の海洋法会議では、四つの条約ができたが、肝心の領海の幅は決められなかった。1960年の二度目の会議も失敗した。そこへ新しい問題が持ち込まれた。1967年、地中海の小国マルタの国連大使アルヴィド・パルドは、国連総会で長い演説を行い、深い海の底に眠るマンガンの塊などの資源は、どの国も領有できない「人類の共同の遺産」であり、その利益は人類全体、とくに貧しい国々に分けられるべきだと訴えた。技術を持つ豊かな国だけが深海底を取り合う前に、ルールを作ろうというのである。

1973年、三度目の国連海洋法会議が始まった。160を超える国が参加し、交渉は9年に及んだ。史上最大級の国際的な立法の交渉とされる。条項ごとに投票していてはまとまらないので、すべての論点を一つの包みにして、全体として合意するというやり方が取られた。領海の幅と引き換えに海峡を通る権利を認め、200海里の水域と引き換えに航行の自由を守る、といった取引が積み重ねられた。1982年4月、ニューヨークで条約の案が採択され、同じ年の12月10日、ジャマイカのモンテゴ・ベイで署名のために開かれた。この日だけで100を超える国と地域が署名した。条約は320の条文と九つの附属書からなる。

条約は海をいくつかの帯に分けた。岸から12海里、約22キロまでが領海で、沿岸国の主権が及ぶ。ただし外国の船も、害を与えない限り通ることができる。24海里までは接続水域で、税関や出入国の取り締まりができる。そして200海里、約370キロまでが排他的経済水域である。ここでは沿岸国は主権そのものではなく、魚や海底の鉱物などの資源を使い、管理する権利を持つ。ほかの国の船の航行や上空の飛行、海底ケーブルを敷くことは自由である。海底の大陸棚は原則200海里までだが、地形の条件を満たせば、最大で350海里まで広げて主張できる。その判断は専門家の委員会が科学的に審査する。その外側に、どの国のものでもない公海が広がる。

深い海の底は「エリア」と呼ばれ、パルドの言葉どおり人類の共同の遺産とされた。ジャマイカに本部を置く国際海底機構が管理し、開発を許可して利益を分ける。争いを裁くために、ドイツのハンブルクに国際海洋法裁判所が置かれた。条約は1994年に発効した。

結果として、海の面積の3分の1あまりが、どこかの国の排他的経済水域に入った。そして世界の漁獲の大半は、この水域の中で行われている。小さな島の価値は一変した。島が一つあれば、その周りに半径200海里の水域が生まれる。面積にすると約43万平方キロメートルで、日本の陸地よりも広い。島をめぐる争いが各地で激しくなったのは、このためでもある。条約は、人が住めず独自の経済生活を営めない「岩」は排他的経済水域や大陸棚を持たないと定めたが、何が「岩」なのかが大きな争点になった。2016年、南シナ海をめぐる仲裁の判断は、スプラトリー諸島の地形はいずれも排他的経済水域を生まないとした。中国はこの判断を受け入れていない。

アメリカは、いまもこの条約を批准していない。レーガン政権が、深海底の資源を国際機関が管理し、技術を途上国に移すよう求める部分を、自由な市場の原則に反するとして拒んだからである。1994年、この部分を大きく和らげる協定が結ばれ、反対していた多くの先進国が加わった。それでもアメリカでは、批准に必要な上院の3分の2の賛成が得られていない。皮肉なことに、アメリカは条約の大部分を慣習として守ると表明しており、海軍も批准を支持してきた。

条約ができた後も、海の線引きは続いている。北極海では氷が減り、新しい航路と資源が現れつつあり、各国が大陸棚の延長を競って主張している。2007年、ロシアの潜水艇が北極点の海底に金属製の国旗を立てたが、法的な意味はない。深い海の底の採掘も、電池に使うコバルトやニッケルを求めて近づいている。国際海底機構の規則のもとでの商業的な採掘はまだ始まっていないが、深海の生き物への影響はほとんど分かっておらず、多くの国や科学者が慎重さを求めている。2023年には、公海の生き物の多様性を守るための新しい協定が採択された。

大砲の弾が届く距離で決められていた海の境界は、いま200海里になり、さらに海底の下にまで線が引かれようとしている。海は誰のものか、という400年前の問いは、まだ終わっていない。

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