香港国家安全維持法
概要
一国二制度の約束が50年のうち23年で書き換えられた。前年に200万人が歩いた街で、集会も新聞も消えていく。
場所
22.32°N 114.17°E · 中国・香港特別行政区
本文
香港島は、1842年のアヘン戦争の講和(アヘン戦争)でイギリスに割譲された。その後、対岸の九竜半島の先端も割譲され、1898年には、その北の広い土地(新界)が99年の期限で借りられた。期限が来るのは1997年である。新界を返せば、残りだけでは香港は成り立たない。1984年、イギリスと中国は共同声明を結び、1997年に香港全体を中国に返すことを決めた。
返還にあたって中国が約束したのが「一国二制度」である。香港は中国の一部となるが、外交と防衛を除いて高度な自治を持ち、資本主義の制度と生活様式を50年間変えない。言論・集会・報道の自由も、基本法と呼ばれる香港の憲法にあたる法律に書き込まれた。この考えを掲げたのは鄧小平である。1997年7月1日、香港は返還された(香港返還)。

基本法の23条は、国家の分裂や政権の転覆を禁じる法律を、香港が自ら定めるよう求めていた。2003年、香港政府がその法案を出すと、50万人が街に出て反対し、法案は取り下げられた。2014年には、行政長官を住民が自由に選べる普通選挙を求めて、学生たちが都心の幹線道路を79日間占拠した。警察の催涙弾を雨傘で防いだことから、雨傘運動と呼ばれる。
2019年、香港政府は、犯罪の容疑者を中国本土にも引き渡せるようにする条例の改正案を出した。台湾で起きた殺人事件がきっかけだったが、本土に送られれば、中国の司法の下で裁かれる。政府に批判的な人々も送られかねない。6月、改正案に反対するデモの参加者は、主催者の発表で100万人、翌週には200万人に達した。警察の発表ははるかに少ないが、人口750万人ほどの街で、記録的な人数であったことは間違いない。

改正案は9月に正式に撤回されたが、デモは止まらなかった。要求は警察の暴力の調査や普通選挙へと広がり、一部は過激化した。7月には若者たちが立法会の建物に突入し、11月には香港中文大学と香港理工大学が警察に包囲された。街には催涙弾の煙が満ちた。同じ11月の区議会選挙では、民主派が8割を超える議席を取って圧勝した。
2020年、新型コロナウイルスの流行で集会が開けなくなる中、北京が動いた。5月末、中国の全国人民代表大会が香港に国家安全の法律を作る方針を決め、6月30日、その常務委員会が法案を可決した。香港の議会である立法会は、一度も審議していない。法の全文は、施行されるまで香港の市民にも公表されなかった。その日の夜11時、法は施行された。返還記念日の前の晩だった。
法が罰するのは、国家の分裂、政権の転覆、テロ活動、外国の勢力との結託の四つで、最も重い刑は終身刑である。香港には中央政府の国家安全の出先機関が置かれ、特に重い事件は本土に移して裁けるとされた。香港の外にいる外国人の香港の外での行為にも適用できる、という条文もある。何が罪にあたるかの線は、あいまいだった。
その後の数年で、香港は大きく変わった。2021年1月、民主派が独自に行った予備選挙に関わったとして、50人を超える政治家や活動家が一斉に逮捕された。民主派を支持する新聞・蘋果日報は資金を凍結されて6月に廃刊に追い込まれ、創業者は逮捕された。ほかのネットの報道機関も次々に閉じた。選挙制度は改められ、立候補できるのは「愛国者」と認められた者に限られた。1989年の天安門事件(天安門事件)の犠牲者を悼むために、30年にわたって毎年6月4日に開かれてきた追悼集会も開かれなくなり、主催団体は解散した。学校の教科も改められている。
多くの人が香港を離れた。イギリスは、返還前に生まれた香港の住民などに、移住への道を開く特別なビザを用意し、申請は十数万件にのぼった。カナダやオーストラリア、台湾へ移った人も多い。香港の人口は、2020年からの2年ほどで十数万人減った。2024年には、基本法23条に基づく国家安全の条例も、香港の立法会で可決されている。2003年に50万人が阻んだ法律が、ほとんど反対の声の無いまま成立した。
約束された50年のうち、国家安全維持法までに過ぎたのは23年だった。中国政府は、この法で香港に秩序が戻ったと説明している。一方で、イギリスやアメリカなどは、一国二制度の約束が破られたと批判した。返還の時に描かれた香港の姿が、ここで書き換えられた。