延久の荘園整理令
概要
藤原の外戚でない後三条天皇が、170年ぶりに即位して、記録荘園券契所を置き、証文のない荘園を取り上げた。摂関家の荘園も。大江匡房が助けた。枡を統一した。「延久の宣旨枡」。4年で譲位して院政を考え、翌年死んだ。白河がそれを継いだ。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
後三条天皇AD1034年9月3日–AD1073年6月15日 · 天皇本文
1068年、後三条天皇が即位した。この天皇の母は、三条天皇の皇女禎子内親王である。藤原氏の娘を母としない天皇は、887年に即位した宇多天皇以来、およそ170年ぶりだった。
平安時代の中ごろから、藤原北家は娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を天皇に立てて、外祖父として摂政・関白の地位につき、朝廷を動かしてきた(摂関政治の頂点)。藤原道長の子の藤原頼通は、50年にわたって摂政・関白を務めた。だが、頼通の娘は後冷泉天皇の皇后になったものの、皇子を生まなかった。弟の教通の娘も同じだった。

後三条は、1045年、異母兄の後冷泉天皇が即位したときに皇太子に立てられた。藤原氏を母に持たない皇太子を、頼通は快く思わなかったとされる。皇太子の地位の象徴である宝剣を、頼通が長く渡さなかったという話も伝わる。皇子の誕生を待つ頼通のもとで、後三条は23年のあいだ皇太子の地位にとどまった。後冷泉に皇子が生まれないまま、1068年、35歳で即位した。
即位した後三条は、すぐに改革に取りかかった。翌1069年(延久元年)、荘園の整理令を出した。荘園とは、貴族や寺社が持つ私有の農地で、多くは税を免れていた。平安時代の半ばから、地方の有力者たちは、自分の土地を中央の貴族や寺社に寄進して名義を借り、国司の税の取り立てを逃れようとした。荘園が増えれば、国の税は減る。荘園の整理令は、それまでにも何度も出されていたが、効き目はなかった。荘園を調べる役目を国司に任せていたため、国司は、摂関家のような権力者の荘園には手を出せなかったからである。

後三条は、やり方を変えた。都に記録荘園券契所という役所を置き、荘園を持つ者すべてに、その荘園の証拠となる文書を出させて、朝廷が直接審査することにした。1045年より後に新しく作られた荘園は認めない。それより前の荘園でも、証拠となる文書が不確かなものは停止する。摂関家の荘園も、例外にはしなかった。
このとき頼通がどう応じたかについて、鎌倉時代の歴史書『愚管抄』に有名な話がある。頼通は、50年あまり天皇の後見を務めてきたあいだ、人びとが勝手に土地を寄進してきたので受け取っていただけだ、証拠の文書などあるはずがない、不確かなものはどうぞ遠慮なくすべて停止なさってください、と答えた。開き直ったともとれるこの返事に、天皇はかえって手をつけにくくなり、摂関家の荘園は大方そのまま残った、と『愚管抄』は伝える。
それでも、整理令は確かに効いた。京都の石清水八幡宮が持つ34か所の荘園のうち、13か所が停止された記録が残っている。荘園と、国司が治める公の土地との境が改めて確かめられ、荘園を持つ者たちは、文書で自分の権利を示さなければならなくなった。
後三条を支えたのは、学者の家に生まれた大江匡房ら、藤原氏の主流から外れた人びとだった。匡房は東宮のころから後三条に学問を教え、天皇の政策づくりに深く関わった。
後三条は、ほかにもさまざまな改革を行った。1072年には、穀物を量る枡の大きさを定めた。それまで、枡は国ごと、荘園ごとにまちまちで、同じ一升でも量が違い、税の量も不公平になっていた。この枡は、天皇の命令である宣旨にちなんで「宣旨枡」と呼ばれ、のちのちまで基準として使われた。物の値段を公に定める法も出している。
同じ1072年の暮れ、後三条は在位わずか4年あまりで、20歳の皇太子に位を譲った。白河天皇である。譲位の理由は、はっきりしない。退位した天皇として政治を続けようとしたのだとする見方がある一方、病のためとも、自分の望む皇子を次の皇太子に立てるためとも言われる。翌1073年、後三条は40歳で死んだ。
その後、白河天皇は1086年に位を譲り、上皇として朝廷を動かす院政を始める(院政の開始)。摂関家の外戚としての力を抑え、天皇家の家長が政治を握る形は、後三条の時代に下地が作られていた。延久の荘園整理令は、摂関政治から院政へと時代が移っていく境目に位置している。