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Event / できごと

延久の荘園整理令

Enkyū Shōen Regulation
AD1069年(延久元年)
重要度 4

概要

藤原の外戚でない後三条天皇が、170年ぶりに即位して、記録荘園券契所を置き、証文のない荘園を取り上げた。摂関家の荘園も。大江匡房が助けた。枡を統一した。「延久の宣旨枡」。4年で譲位して院政を考え、翌年死んだ。白河がそれを継いだ。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

後三条天皇AD1034年9月3日–AD1073年6月15日 · 天皇

本文

後三条天皇の母は三条天皇の娘、禎子内親王。藤原氏を母としない天皇は、宇多天皇(887年即位)以来170年ぶり。頼通は自分の娘に皇子ができるのを待って、皇太子の後三条を25年待たせた。頼通の娘には皇子が生まれなかった。1068年、後三条が即位した。

翌1069年、延久の荘園整理令。荘園整理令はそれまでも何度も出て、効かなかった。国司が調べて、摂関家の荘園には手を出せなかったから。後三条は記録荘園券契所を京に置いた。荘園の証文を全部出させて、中央で審査する。1045年(寛徳2年)以後に立てられた荘園と、証文の不確かな荘園を停止する。摂関家の荘園も対象にした。頼通は「証文はない。前の天皇の宣旨で認められたのだから」と抗弁した。石清水八幡宮の荘園34か所のうち13か所が停止された。

天皇の側近は大江匡房。「天皇は学問を好み、諸道に通じている」。学者の家の匡房が、藤原の家に代わって政策を作った。

延久の宣旨枡。1升の大きさを統一した。それまで荘園ごと、国ごとに枡が違い、税の量も違った。

1072年、後三条は白河に譲位した。院として政治を続けるつもりだった、と考えられる。翌年、病気で死んだ。40歳。白河が1086年に譲位して、院政を始めた。後三条が考えたことを、白河がやった。

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