できごと

二月革命(ロシア)

February Revolution
AD1917年3月8日(露暦2月23日)
重要度 5
二月革命(ロシア)に関わる図版:ManifestaciónAFavorDeLaRepúblicaPetrogrado1917--russiainrevolut00jone
ManifestaciónAFavorDeLaRepúblicaPetrogrado1917--russiainrevolut00jone Wikimedia Commons Jones, Stinton · Public domain

概要

国際女性デーにペトログラードの女工がパンを求めて出た。5日で守備隊が加わった。皇帝は列車の中で退位した。300年のロマノフ朝が1週間で終わった。臨時政府とソヴィエトが並び、戦争は続いた。8か月後、レーニン。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

関わった人(1)

ニコライ2世AD1868年5月18日–AD1918年7月17日 · 退位

本文

1917年の冬、ロシアは3年目の戦争、第一次世界大戦に疲れ果てていた。前線ではすでに数百万の兵が死傷するか捕虜となり、国内では物資が不足し、物価は大きく上がった。首都ペトログラードには鉄道で穀物が届かず、パン屋の前には長い行列ができた。皇帝ニコライ2世は前線の大本営に詰め、首都の政治は、怪僧ラスプーチンの影響を受けた皇后と頻繁に交代する大臣たちに委ねられていた。ラスプーチンは前年の暮れに暗殺されていたが、人々の宮廷への信頼はすでに失われていた。

ロシアの暦で2月23日、西暦では3月8日、国際女性デーの日に、首都の北側の工業地区ヴィボルグで、繊維工場の女性労働者たちが仕事を放り出して街頭に出た。求めたのはパンだった。彼女たちは近くの金属工場に押しかけ、男の労働者にも加わるよう呼びかけた。この日のうちに、街に出た人の数は9万前後に達したとされる。どの党も、この日に大きな行動を起こすつもりはなかった。

二月革命(ロシア)の巡視隊
二月革命(ロシア)の巡視隊Wikimedia Commons Yakov Vladimirovich Steinberg · Public domain

翌24日には20万ほどに膨らみ、25日には首都の工場の多くが止まるゼネストになった。「パンを」の叫びに、「戦争をやめろ」「専制を倒せ」という声が加わった。大本営にいた皇帝は、首都の軍司令官に、明日までに騒ぎを止めよと電報で命じた。26日、兵士たちは命令に従って群衆に発砲し、繁華街のズナメンスカヤ広場などで多くの死者が出た。

流れが変わったのは、その翌日だった。27日の朝、前夜に市民を撃たされたヴォルィニ連隊の兵士たちが命令を拒み、指揮官を殺して街に出た。反乱はプレオブラジェンスキー連隊などほかの部隊へ次々に広がり、その日の夕方までに数万の兵士が市民の側についた。首都の守備隊の多くは、前線へ送られるのを待つ予備兵や新兵で、同じ国民を撃つことにも、前線へ行くことにも嫌気がさしていた。兵士と労働者は武器庫や監獄を襲い、警察署を焼いた。

1730年のロシア帝国地図(シュトラーレンベルク作)
1730年のロシア帝国地図(シュトラーレンベルク作)Wikimedia Commons Philipp Johann Strahlenberg engraverː Theodore Spendelowe in London. · Public domain

同じ27日、国会にあたるドゥーマの議員たちはタヴリーダ宮殿に集まり、秩序を取り戻すための臨時委員会を作った。同じ宮殿の別の部屋では、労働者と兵士の代表が集まり、ペトログラード・ソヴィエトが生まれた。のちに「二重権力」と呼ばれる仕組みの始まりである。3月1日、ソヴィエトは兵士への「命令第1号」を出し、部隊ごとに兵士の委員会を作ること、武器は委員会が管理すること、政府の軍事命令もソヴィエトの決定に反しない限りで従うことを定めた。軍の規律は根もとから揺らいだ。

皇帝は首都へ戻ろうと大本営を列車で出たが、反乱の広がった鉄道を避けて迂回するうちに、北部方面軍の本営があるプスコフで足止めされた。将軍たちは口をそろえて退位を勧めた。3月2日、ロシアの暦で、ニコライ2世は退位を受け入れた。いったんは息子のアレクセイに譲ろうとしたが、皇太子が血友病で、離れて暮らすことになるのを恐れ、弟のミハイル大公に譲ることにした。翌3日、ミハイルは、憲法制定会議が求めるなら帝位を受けると表明し、事実上これを辞退した。1613年に始まったロマノフ朝の始まり以来、300年あまり続いた王朝は、最初の行列からわずか10日ほどで終わった。

モイカ川を挟んで警察に発砲する学生と兵士
モイカ川を挟んで警察に発砲する学生と兵士Wikimedia Commons London Illustrated London News and Sketch · Public domain

臨時政府の首班には、地方自治の活動家として知られたリヴォフ公がつき、立憲民主党のミリュコフが外相、グチコフが陸海相となった。社会主義者からはただ一人、ソヴィエトの副議長でもあった弁護士のケレンスキーが法相として加わった。臨時政府は政治犯を釈放し、言論・集会の自由を認め、身分や宗教による差別を廃止し、死刑も廃止した。すべての政党が合法となり、自由な選挙で憲法制定会議を開くことが約束された。ロシアが最も自由だった時期と言われるゆえんである。

しかし臨時政府は、連合国との約束を守って戦争を続けることを選んだ。ソヴィエトの多くの指導者も、すぐに戦争をやめることまでは求めなかった。土地の分配も、憲法制定会議が決めるまで先送りされた。4月3日、亡命先のスイスからドイツの用意した列車で戻ったレーニンは、フィンランド駅で群衆に迎えられ、臨時政府を支持するな、すべての権力をソヴィエトへ、と訴えた。のちに「四月テーゼ」と呼ばれる主張である。

夏の攻勢は失敗し、7月には首都で武装デモが起き、政府の首班はケレンスキーに代わった。8月の終わりには、軍の総司令官コルニーロフが首都へ軍を向け、ケレンスキーはボリシェヴィキの力を借りてこれを退けた。秋になると、ボリシェヴィキは首都のソヴィエトで多数を占めた。10月、彼らは武装蜂起で臨時政府を倒す。二月の革命から8か月後のことだった。この流れの全体はロシア革命として語られる。

ロシア革命に関わる図版:Митинг на Невском проспекте (1917)
ロシア革命Wikimedia Commons unknown; photo retake by George Shuklin · Public domain

二月革命の死者は、首都でおよそ1300から1400人ほどとされる。だれが計画したわけでもなく、パンを求める女性たちの行動が、兵士の反乱を経て王朝を倒した。トロツキーはのちに『ロシア革命史』で、この革命がどの党の指導も受けずに始まったことを描いた。ソ連の歴史学は、二月革命を十月革命への前段階のブルジョワ革命と位置づけた。一方、二月から十月までの8か月に、別の道はありえたのかという問いは、いまも歴史家の間で議論される。

3月8日が国際女性デーとして世界に定着したのは、この日のペトログラードの出来事を記念したからだとされる。パンの行列から始まった革命の日付は、いまも毎年めぐってくる。

動画(1)

153 ロシア革命 世界史20話プロジェクト第16話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第153講「ロシア革命」

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