青年トルコ革命

概要
マケドニアの若い将校たち(統一と進歩委員会)が山に入って反乱し、アブデュルハミト2世は30年前に止めた憲法を復活させた。「自由、平等、友愛、正義」。ムスリムとキリスト教徒とユダヤ人が街で抱き合った。1年で反革命、鎮圧、スルタン廃位。1913年、エンヴェルのクーデター。3人の独裁。ドイツについて、大戦。アルメニア。
場所
40.64°N 22.94°E · ギリシア
関わった人(2)
エンヴェル・パシャAD1881年11月22日–AD1922年8月4日 · 率いたアブデュルハミト2世AD1842年9月21日–AD1918年2月10日 · 憲法を復活させられた本文
1876年、オスマン帝国はアジアで初めての成文憲法を公布し、翌年、議会を開いた。しかし即位したばかりのアブデュルハミト2世は、1878年、ロシアとの戦争を理由に議会を閉じ、憲法を棚上げにした。それから30年、スルタンはイスタンブールのユルドゥズ宮殿から密偵と検閲の網で国を治めた。その間にも帝国は縮み続け、ベルリン会議でセルビアやルーマニアの独立が認められ、ボスニアはオーストリアの、キプロスはイギリスの管理下に入り、チュニジアはフランスに、エジプトはイギリスに押さえられた。
アブデュルハミト2世は鉄道や電信、学校を広げた。皮肉なことに、その新式の学校で学んだ若い軍人や役人が、専制への反対者になった。1889年、イスタンブールの軍医学校の学生たちが秘密結社を作り、これがやがて「統一と進歩委員会」となる。ヨーロッパの人々は彼らを「青年トルコ人」と呼んだ。パリにはアフメト・ルザらの亡命者が新聞を出し、1906年にはテッサロニキで郵便局員のタラートらが別の結社を作り、翌年、両者は合流した。

運動の中心になったのは、マケドニアに駐屯する第3軍の将校たちである。マケドニアにはムスリム、ギリシア人、ブルガリア人、セルビア人などが入り混じって住み、それぞれの武装集団が争っていた。列強は改革を名目にこの地域に口を出していた。1908年6月、イギリス国王エドワード7世とロシア皇帝ニコライ2世がバルト海のレヴァルで会見すると、マケドニアが帝国から切り離されるのではないかという危機感が将校たちに広がった。
7月3日、ニヤーズィ少佐が兵と住民を率いてレスネの町から山に入り、憲法の復活を求めて反乱を起こした。まもなくエンヴェル・パシャも別の山へ入った。スルタンが鎮圧に送った将軍は撃ち殺され、送られた部隊は反乱側に加わった。7月23日、モナスティルやテッサロニキで委員会が憲法の復活を宣言した。翌7月24日、スルタンは抵抗を諦め、憲法を復活させて議会を開くと発表した。血がほとんど流れないままの革命だった。

テッサロニキやイスタンブールの街では、ムスリムとキリスト教徒とユダヤ人が抱き合って喜んだと伝えられる。「自由、平等、友愛、正義」が合言葉になり、検閲が消えて新聞が次々に創刊された。エンヴェルとニヤーズィは「自由の英雄」と讃えられた。年末には選挙が行われ、トルコ人だけでなく、アラブ人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人の議員も集まる議会が開かれた。帝国の多様な住民が一つの議場に並んだのは、これが初めてに近かった。
喜びは長く続かなかった。革命の混乱を見て、1908年10月、ブルガリアが独立を宣言し、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合し、クレタはギリシアとの合併を宣言した。1909年4月13日(当時の暦で3月31日)、イスタンブールで、イスラームの法の回復を叫ぶ兵士と神学生が反乱を起こした。マケドニアから「行動軍」が鉄道で駆けつけて4月24日に鎮圧し、議会は4月27日にアブデュルハミト2世を廃位した。弟のメフメト5世が即位したが、実権は委員会に移った。この反乱の混乱のさなか、南東部のアダナでは数万のアルメニア人が殺される虐殺が起きた。革命の初め、アルメニア人の政党は委員会と協力していたが、この事件は両者の間に深い溝を残した。

その後の数年、帝国は戦争に次ぐ戦争に見舞われた。1911年、イタリアがリビアに攻め込み、1912年に始まったバルカン戦争では、マケドニアと革命の発祥地テッサロニキを失った。1913年1月、エンヴェルは仲間と大宰相府に乗り込み、陸軍大臣を撃ち殺して政権を奪った。半年後、大宰相が暗殺されると委員会は反対派を一掃し、エンヴェル、タラート、ジェマルの「三人のパシャ」が国を動かすようになった。
1914年8月、エンヴェルらはドイツと秘密同盟を結び、秋に帝国は第一次世界大戦に参戦した。ガリポリの戦いでは英仏軍を退けたが、東部戦線では大敗し、その最中の1915年にアルメニア人虐殺が起きた。1918年、敗戦が決まると、三人のパシャはドイツの船で国外へ逃げた。タラートは1921年にベルリンで、ジェマルは1922年にトビリシで、いずれもアルメニア人に暗殺され、エンヴェルは同じ年、中央アジアで赤軍と戦って死んだ。

青年トルコの人々は、はじめ宗教や民族を問わずすべての臣民が平等な「オスマン人」になることを目指した。しかし領土を失い続ける中で、トルコ人の民族主義へと傾いていった。委員会の一員だったムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)は、エンヴェルらとは距離を置いていたが、彼らの時代に育った軍人や官僚とともに、敗戦後の祖国解放戦争を戦い、1923年にトルコ共和国を建てた。憲法と議会を求めた1908年の革命は、オスマン帝国の終わりの始まりでもあった(オスマン帝国)。