メンチュウの証言
概要
内戦下の先住民への弾圧を、口述による本で世界に伝えた。1992年にノーベル平和賞。のちに細部の食い違いが指摘され、証言文学とは何かという議論になる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
リゴベルタ・メンチュウAD1959年1月9日–? · 証言本文
グアテマラでは1960年から36年にわたって内戦が続いた。1954年、アメリカの果物会社の土地を国有化しようとした政権がクーデターで倒され(ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」)、その後の軍事政権に対して左派のゲリラが武器を取ったのが始まりである。戦いが最も激しくなった1980年代の初め、軍はゲリラを支える者を根こそぎにするとして、西部の高地に住むマヤの先住民の村々を次々に焼き払った。のちに国連の支援で設けられた真相究明委員会は、内戦の死者と行方不明者を20万人以上と見積もり、その8割以上が先住民だったこと、一部の地域で軍の行為がジェノサイドにあたることを報告している。
リゴベルタ・メンチュウは1959年、キチェ県の山あいの村チメルに、キチェ・マヤの農民の娘として生まれた。一家は高地の小さな畑でトウモロコシを作り、それだけでは食べられない季節には、太平洋岸の大農園へトラックで運ばれてコーヒーや綿花を摘んだ。父のビセンテは土地をめぐる争いで農民の運動に加わり、何度も投獄された。
1979年から1980年にかけて、一家は相次いで命を奪われた。弟は軍に捕えられて拷問の末に殺された。1980年1月、父は抗議のために首都のスペイン大使館を占拠した農民たちの一人で、警官隊の突入のさなかに起きた火災で、ほかの30人あまりとともに焼け死んだ。その数か月後には、母も軍に連れ去られて殺された。リゴベルタはメキシコへ逃れた。
1982年の初め、ヨーロッパを回って内戦の実態を訴えていたメンチュウは、パリでベネズエラ生まれの人類学者エリザベス・ブルゴスの家に1週間ほど滞在した。ブルゴスは彼女の話を録音し、20数時間分のテープを書き起こして、時系列と主題ごとに並べ直した。メンチュウがスペイン語を話せるようになったのは、そのほんの数年前のことだった。こうして1983年に出たのが『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』である。
本は一人称で語られる。マヤの村で子どもが生まれたときの儀礼、トウモロコシと大地への祈り、大農園の劣悪な宿舎で幼い弟が飢えて死んだこと、ラディーノ(スペイン語を話す非先住民)の地主に土地を奪われそうになったこと、軍が捕えた村人を広場で焼き殺すのを家族が見せられたこと。内戦の外の世界には、グアテマラの先住民の声として届いた初めての本の一つで、多くの言語に訳され、大学の授業でも読まれた。
1992年、メンチュウはノーベル平和賞を受けた。先住民の権利と、内戦の和解のための活動が理由である。コロンブスのアメリカ到達(コロンブスの到達)から500年にあたる年で、その選考には象徴の意味があった。賞金で財団を作り、1996年に内戦を終わらせる和平協定が結ばれるまで、交渉の場の外から働きかけを続けた。
1999年、アメリカの人類学者デヴィッド・ストールが、本の内容を現地で調べ直した結果を出版した。大農園で飢え死にしたと書かれた弟と同じ名の弟は、生きていた。彼女は畑で働いていた時期に、カトリックの修道会の寄宿学校で学んでいた。父の土地の争いの相手は、主に親族だった。弟が焼かれる場面を、彼女自身は目撃していなかった可能性が高い。新聞もこれを追って報じた。
メンチュウは、あの本は自分ひとりの体験ではなく、貧しいグアテマラ人みなの体験を語ったものだ、と答えた。ノーベル賞の選考委員会も、賞を取り消す理由にはならないとした。論争はやがて、証言文学(テスティモニオ)とはそもそも何なのか、という問いに移っていく。個人の正確な記録として読むべきなのか、共同体の経験を一人の声に託した語りとして読むべきなのか。語り手と、それを書き取り編集した知識人と、読む側の欧米の読者は、それぞれ何を求めていたのか。ストール自身も、軍による虐殺そのものは否定していない。
内戦の真相究明委員会の報告は、本に書かれたような村の破壊と殺戮が実際に繰り返されたことを、数多くの証言から確かめた。2013年には、1980年代初めの最高権力者だった元将軍リオス・モントにジェノサイドの罪で有罪の判決が下されたが、10日後に憲法裁判所によって取り消された。メンチュウはその後、二度大統領選挙に立ったが、どちらも得票は数パーセントにとどまっている。