できごと

大宝律令

Taihō Code
AD701年(大宝元年)
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民唐突厥ツングース系の人びと吐蕃吐蕃渤海ウイグルカルルク高句麗タイ系の諸王国日本Nan-Zhaoアイヌ新羅ヒンドゥーの諸国真臘チャンパドヴァーラヴァティーAD701年(大宝元年)藤原京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD701年(大宝元年)の版図を描いています(19勢力)。

概要

刑部親王と藤原不比等が唐の律令を手本に、律6巻、令11巻。二官八省、班田収授、租庸調、戸籍。年号「大宝」。日本が「日本」と名乗り、天皇が「天皇」と書かれ、法で国が動くようになった最初の年。律令そのものは残らず、養老令の注釈から復元されている。

場所

藤原京
34.50°N 135.81°E · 奈良県橿原市

本文

大宝元年(701年)、日本で初めて、刑法にあたる「律」と、行政の仕組みを定めた「令」がそろった法典が完成した。大宝律令である。律6巻、令11巻。編纂の中心になったのは、天武天皇の皇子の刑部親王と、中臣鎌足の子の藤原不比等だった。翌702年には全国で施行された。この法典によって、日本は天皇を頂点とし、官僚と文書によって全国を治める国家の形を、ひととおり整えた。

手本は唐の律令だった。唐は7世紀の半ば、高宗の時代に永徽律令(651年)を定め、皇帝のもとで官僚が法に従って広い国土を治める仕組みを完成させていた。日本は7世紀の後半、朝鮮半島の情勢に大きく揺さぶられた。663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、唐が攻めてくるかもしれないという恐怖の中で、国の守りを固め、豪族の寄り合いだった政治を、天皇のもとに一つにまとめる必要に迫られた。

改革の流れは、大化の改新にさかのぼると言われる。天智天皇(中大兄皇子)は近江令を作らせたと伝えられるが、実在したかどうかは議論がある。壬申の乱に勝った天武天皇は、681年に律令の編纂を命じた。それが天武の死後、皇后だった持統天皇の時代の689年に、飛鳥浄御原令として施行された。ただしこれは令だけで、律はまだ整っていなかったと考えられている。694年、持統天皇は唐の都にならった碁盤の目の都、藤原京に移った。律と令がそろった大宝律令は、この藤原京で、孫の文武天皇のもとで完成した。

壬申の乱に関わる図版:Omi Otsu-no-miya, dairi-seiden-ato
壬申の乱Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

大宝律令が定めた国の形は、まず中央の役所である。神々の祭りを司る神祇官と、政治を担う太政官の二官を置き、太政官の下に中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内の八省を置いた。これを二官八省という。全国は国、郡、里に分けられ、都から国司が送られた。役人には正一位から少初位下までの30の位階があり、位に応じて官職が与えられた。ただし、五位以上の貴族の子や孫には、生まれながらに一定の位が与えられる蔭位の制度があり、名門の家が高い地位を占め続ける仕組みも組み込まれていた。

民の暮らしも、法で縛られた。6年ごとに戸籍を作り、6歳以上の男子には2段、女子にはその3分の2の田を与えた。死ねば国に返させる。これが班田収授である。田を与えられた者は、収穫の3パーセントほどの稲を租として納めた。成人の男子には、都で労役に就く代わりに布を納める庸、地方の特産物を納める調、年に60日までの地方での労役である雑徭が課された。さらに兵役もあり、成人男子の3人から4人に1人が兵士として集められ、都の警備の衛士や、九州の守りの防人として遠くへ送られた。税の多くは、男子に重くかかる仕組みだった。

藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る
藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見るWikimedia Commons 名古屋太郎 · CC0

律には、笞・杖・徒・流・死の五つの刑罰が定められ、天皇や国家、親に対する重い罪は八虐として、とくに厳しく罰せられた。

大宝律令の時代は、国の名前と年号の歴史でも節目になった。「大宝」という年号は、対馬から金が献上されたことを祝って定められた。日本の年号は645年の大化に始まるとされるが、そのあとは途切れたり、使われない時期があったりした。大宝からは、年号が一度も途切れずに今日の令和まで続いている。そして702年、30年あまりぶりに唐へ渡った遣唐使の粟田真人は、自分たちの国を「日本」と名乗った。中国の歴史書は、このころから倭国ではなく日本国の使者として記録するようになる。「天皇」という称号も、天武・持統の時代から使われ始め、律令の中で正式に定められたと考えられている。

藤原宮 大極殿院閤門跡列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。
藤原宮 大極殿院閤門跡列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

この法典の影響は、思いがけないところにも表れている。720年に完成した『日本書紀』は、646年の大化の改新の詔で、地方の単位を「郡」と書いている。ところが藤原京などから出土した木簡では、701年より前は地方の単位を「評」と書き、大宝律令のあとに「郡」に変わっている。つまり『日本書紀』は、大化の改新の詔を、のちの大宝令の言葉で書き直していたことになる。長く続いた郡評論争は、木簡によって決着した。大化の改新がどこまで本当に行われたのかという問いは、ここから出発している。

大宝律令そのものは、いまは残っていない。718年、藤原不比等のもとで、これを手直しした養老律令が作られ、757年に施行された。大宝律令は養老律令に取って代わられ、写本も失われた。今日の私たちが大宝律令の中身を知ることができるのは、9世紀に作られた養老令の注釈書『令集解』に、大宝令の注釈である「古記」が引用されているからである。そこから、養老令と大宝令は大筋では同じだったことが分かり、大宝令の条文の多くが復元されている。

律令の国家は、思いどおりには動かなかった。人口が増えて与える田が足りなくなり、重い負担から逃げ出す農民も増えた。743年の墾田永年私財法で、新しく開いた田の私有が認められると、貴族や寺社の私有地である荘園が広がっていった。9世紀の終わりには戸籍も班田もほとんど行われなくなった。

それでも、律令が廃止されることはなかった。太政官や八省の名は、実際の政治の中身が変わっても、形として朝廷に残り続けた。明治政府は1868年、政府の最高機関の名に再び太政官を用いた。1885年に内閣制度ができて太政官が廃止されるまで、大宝律令から始まった国家の枠組みは、1000年以上にわたって名前を残したことになる。

動画(1)

022 文武天皇の時代・大宝律令 ①日本史ストーリーノート第03話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第22講「文武天皇の時代・大宝律令①」

同じ時代のできごと

則天武后の即位AD690年岩のドームAD691年藤原京AD694年鐙と騎士AD700年頃渤海の建国AD698年条里AD8世紀バクティ運動AD700年氷室AD700年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD701年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →