元首政の始まり(アウグストゥスの称号)
概要
オクタウィアヌスが元老院で「すべての権限を返す」と言い、元老院が「受け取ってほしい」と頼み、属州の半分と軍を10年預けた。3日後、「アウグストゥス」。「尊厳ある者」。共和政の形を残して、一人が治める。「プリンケプス」、第一の市民。皇帝という語はまだない。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
アウグストゥスBC63年9月23日–14年8月19日 · アウグストゥスの名を得た本文
紀元前27年1月、ローマの元老院で一人の男が「すべての権限を返す」と言った。言ったのは、4年前にアクティウムの海戦でマルクス・アントニウスとクレオパトラ7世を破り、地中海世界の軍をただ一人で握っていたオクタウィアヌスである。元老院は返上を受け取らず、かえって広い属州と軍を預け、3日後に「アウグストゥス」という名を贈った。ローマの皇帝政治、元首政(プリンキパトゥス)はこの数日から始まったとされる。
背景には、100年近く続いた内乱がある。グラックス兄弟の改革が流血に終わってから、有力な将軍たちは自分に忠実な兵を率いて争い、ガイウス・ユリウス・カエサルは終身の独裁官になった直後、紀元前44年3月に元老院で刺し殺された。カエサルは「王になろうとしている」と疑われて殺された。その養子オクタウィアヌスは、この教訓を誰よりも深く受け止めていた。力を持つことと、力を持っているように見えることは別だ、という教訓である。
紀元前30年、アレクサンドリアでアントニウスとクレオパトラが自殺し(クレオパトラの死)、エジプトはローマのものになった。翌紀元前29年、オクタウィアヌスはローマに戻ってイリュリクム・アクティウム・エジプトの三つを祝う凱旋式を3日続けて挙げ、戦争が終わった印としてヤヌス神殿の門を閉じさせた。紀元前28年には同僚のアグリッパと元老院の名簿を見直し、内乱のあいだに紛れ込んだ不適格な議員を退かせた。自分は名簿の筆頭、「元老院の第一人者」に置かれた。三頭政治のころ自分が出した不法な命令は、この年に無効とした。下準備はこうして整えられた。

紀元前27年1月13日の元老院で、オクタウィアヌスは国家(レス・プブリカ)を元老院とローマ市民の手に返すと宣言した。歴史家カッシウス・ディオは、この場面を周到に用意された芝居として描いている。議員の多くは本心を測りかね、彼に留まるよう求めた。結果として彼は、まだ平定の済んでいないヒスパニア、ガリア、シリアなど、軍団の置かれた属州を10年の期限で預かった。エジプトはもともと彼の直轄で、元老院議員は許しなしに立ち入ることさえできなかった。残りの平穏な属州は元老院が総督を送る。形のうえでは分け合いだが、軍団のほとんどは彼の属州にいた。
1月16日、元老院は彼に「アウグストゥス」の名を贈った。提案したのは、かつてアントニウスの側にいた古参の政治家ムナティウス・プランクスと伝えられる。「増やす」という意味の動詞や、鳥占いの「アウグリウム」に通じる語で、人間を超えた尊さを帯びた言葉である。伝記作家スエトニウスによれば、ローマを建てた英雄にちなんで「ロムルス」と名乗る案もあったが、王の名を思わせるので退けられたという。彼の家の門柱には月桂樹が飾られ、市民の命を救った者に与える樫の葉の冠が掲げられ、元老院議事堂には彼の勇気・寛容・正義・敬虔をたたえる黄金の盾が置かれた。

彼自身は晩年の業績録『神君アウグストゥスの業績』で、この時のことを振り返り、自分は権威(アウクトリタス)では誰にも勝ったが、権限(ポテスタス)では同じ職にあった同僚より多くを持たなかった、と書いた。法の上の権限は共和政の枠に収め、人びとが自然に従う重みで国を動かす。それが彼の作り上げた仕組みの要だった。彼は自分を王とも独裁官とも呼ばせず、「プリンケプス」、第一の市民と名乗った。
仕組みはその後も手直しされた。紀元前23年、毎年務めていた執政官を辞め、代わりに護民官の職権と、元老院の属州にも及ぶ上位の命令権を受けた。官職に就かずに官職の力を持つ形で、これを「第二の整理」と呼ぶことがある。凱旋将軍への呼びかけ「インペラトル」を名前の頭に置き、養父の家名「カエサル」を名乗り続けた。後のヨーロッパの言葉で皇帝を意味する「エンペラー」も、ドイツの「カイザー」やロシアの「ツァーリ」も、この二つの名から生まれている。ただし同時代のローマ人に「皇帝」という一つの官職の意識はなかった。
ドイツの歴史家モムゼンは、この体制を元首と元老院が権力を分け合う「二頭政」と名づけた。執政官も法務官も元老院も民会も、すべて残っていた。だが軍と財と人事の要は一人の手にあった。共和政の器はそのままに、中身が入れ替わったのである。
アウグストゥスは紀元14年に満75歳で死ぬまで、40年あまりこの立場にあった。紀元前8年には、生まれ月ではなく大きな勝利の多かった「セクスティリス(第6の月)」が彼の名に改められ、養父の名を持つ7月の隣に並んだ。英語の8月の名はここから来ている。
後継者ティベリウスが即位したとき、タキトゥスは『年代記』の冒頭で、共和政をその目で見たことのある者がどれほど残っていただろうか、と書いた。共和政を覚えている者がいなくなるまで、形だけの共和政を続けたこと。それがアウグストゥスの最大の工夫であり、カエサルが殺された理由をかわした方法でもあった。アウグストゥスが始めたこの形は、ローマの皇帝たちが代々「アウグストゥス」を名乗り続けることで、3世紀の混乱まで受け継がれていく(物語「共和政の終わり」)。