できごと

ヘイスティングズの戦い

Battle of Hastings
AD1066年10月14日
重要度 4
ヘイスティングズの戦いに関わる図版:Bayeux Tapestry scene57 Harold death
Bayeux Tapestry scene57 Harold death Wikimedia Commons Myrabella · Public domain

概要

ノルマンディー公がイングランドを征服した。英語にフランス語が大量に流れ込む。

場所

ヘイスティングズ
50.91°N 0.49°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ウィリアム1世AD1028年頃–AD1087年 · ノルマン側 · 総指揮

本文

1066年1月5日、イングランド王エドワード(証聖王)が子のないまま亡くなった。翌日、王国一の実力者だったウェセックス伯ハロルドが、王の遺言と有力者たちの推挙を受けてハロルド2世として即位した。しかし、王位を狙う者はほかにもいた。海の向こうのノルマンディー公ギヨーム、のちのウィリアム1世である。ノルマンディーは、10世紀にヴァイキングの首領がフランス王から与えられた土地で(ノルマンディー公国の成立)、その子孫の公たちはすでにフランス語を話し、強力な騎士たちを従えていた。

ギヨームは、母がノルマンディー公家の出だったエドワードから、かつて王位を約束されたと主張した。さらに、ハロルドが数年前にノルマンディーを訪れた際、ギヨームの王位継承を支えると聖遺物にかけて誓った、とノルマン側の記録は伝える。その誓いが本当にあったのか、どんな事情で交わされたのかは分からない。ギヨームは誓いを破った者を討つと唱えてローマ教皇の支持を取りつけ、船を造らせ、フランス各地から騎士を集めた。

同じ年の9月、北からも敵が来た。ノルウェー王ハラルド苛烈王が、イングランド王ハロルドの弟で、兄と対立して国を追われていたトスティを伴い、イングランド北部に上陸したのである。ハロルドは軍を率いて北へ急ぎ、9月25日、ヨーク近郊のスタムフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍を破った。ハラルドもトスティも戦死した。

スタムフォード・ブリッジの戦いに関わる図版:Battle of Stamford Bridge, full
スタムフォード・ブリッジの戦いWikimedia Commons Matthew Paris · Public domain

その3日後、風向きが変わるのを待っていたギヨームの軍が、イングランド南岸のペヴェンジーに上陸した。知らせを受けたハロルドは、勝ったばかりの疲れた兵を連れて南へ引き返した。ヨークからロンドンを経てヘイスティングズの近くまで、およそ400キロ。ロンドンで兵を補ったとはいえ、北の戦いで傷んだ精鋭も多く、地方の兵が集まりきらないうちの出陣だった。

10月14日の朝、ハロルドの軍は、ヘイスティングズの北西の丘の尾根に陣を取った。両軍の兵はそれぞれ7000ほどとみられている。イングランド軍は馬を降り、盾をすき間なく並べて「盾の壁」を作った。ノルマン軍は、弓兵、歩兵、騎兵の順に丘の斜面を攻め上った。だが矢は盾に止められ、騎兵の突撃も、斧や槍を振るうイングランドの戦士たちに跳ね返された。一時はギヨームが討たれたという噂がノルマン軍に広がり、公は兜を上げて顔を見せ、兵を落ち着かせたと伝えられる。

ハロルドが戦死した場所を示す石(バトル修道院の高祭壇跡)
ハロルドが戦死した場所を示す石(バトル修道院の高祭壇跡)Wikimedia Commons Néstor Daza · Public domain

戦いの流れを変えたのは、ノルマン軍の退却だったとされる。崩れて逃げるノルマン兵を追って、イングランドの兵の一部が丘を駆け下りると、ノルマンの騎兵が向きを変えて彼らを囲み、討ち取った。ノルマン側の記録は、これを意図的な見せかけの退却として何度も繰り返したと書くが、最初は本当の敗走だったとみる研究者もいる。盾の壁は少しずつ薄くなり、夕方、ついにハロルドが倒れた。王の兄弟たちも戦死し、指揮する者を失ったイングランド軍は崩れた。

ハロルドの最期を描いた場面として有名なのが、戦いの数年後に作られた刺繍の絵巻、バイユーのタペストリーである。目に矢を受けた兵士の姿があり、その上に「ハロルド王が殺された」と記されている。ただし、矢を受けた兵士がハロルドなのか、その隣で騎士に斬り倒される兵士がハロルドなのかは議論があり、後世の修復で絵が変わった可能性も指摘されている。

ギヨームは抵抗する町を降しながらロンドンへ進み、1066年のクリスマスの日、ウェストミンスター寺院でイングランド王として戴冠した。その後も各地で反乱が起きたが、ウィリアム1世は北部を焼き払うなど容赦なく鎮圧した。20年後の1086年に作られた土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を見ると、イングランドの土地の大半はノルマン人の領主と教会のものになり、イングランド人の大領主はほとんど残っていなかった。

ドゥームズデイ・ブックに関わる図版:Domesday-book-1804x972
ドゥームズデイ・ブックWikimedia Commons Andrews, William · Public domain

支配する人びとが入れ替わったことは、言葉にも跡を残した。王宮や裁判、教会の上層部ではフランス語とラテン語が使われ、英語は庶民の言葉になった。その間に、英語には大量のフランス語が流れ込んだ。畑で飼われる生きた牛(カウ)や豚(ピッグ)は古くからの英語、食卓にのぼる牛肉(ビーフ)や豚肉(ポーク)はフランス語から来た言葉だ、という例はよく知られている。いまの英語の語彙の多くがフランス語やラテン語に由来するのは、この征服に始まる数百年の結果である。ヘイスティングズの一日は、イングランドを大陸の政治に結びつけ、英語という言葉の姿まで変えたのだった。

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