欧州難民危機
概要
シリアの内戦から100万人がヨーロッパへ来た。ドイツは受け入れ、ハンガリーは柵を建てた。浜辺の3歳の子の写真が世界に回った。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
本文
2011年、アラブ世界に広がった民衆の抗議(アラブの春)はシリアにも及んだ。アサド政権は武力で応じ、国は政府軍、反政府勢力、過激派組織「イスラム国」、クルド人勢力が入り乱れる内戦に陥った(シリア内戦)。町は空爆と砲撃で壊され、2015年までに数十万人が死んだ。国外へ逃れた人は400万人を超え、トルコに約200万人、レバノンに100万人あまり、ヨルダンに60万人ほどが身を寄せていた。
隣国での避難生活は長引いていた。難民の多くは、キャンプではなく町の中で、働く許可もなく貯えを食いつぶして暮らしていた。2015年には国際機関の資金が足りなくなり、食料の支援が削られた。内戦が終わる見通しは立たず、子どもを学校に通わせることもできない。ヨーロッパへ渡ろうと考える人が急に増えた。シリアの人々に加え、アフガニスタンやイラク、アフリカ各地からも人々が向かった。

主な道筋は二つあった。一つは、リビアなど北アフリカからイタリアへ地中海を渡る道で、すし詰めの古い船が沈む事故が相次いだ。4月にはリビア沖で、一度に数百人が死んだとされる転覆事故が起きている。もう一つが、トルコの海岸からエーゲ海を渡ってギリシアの島々へ渡る道だった。対岸までは数キロから十数キロしかないが、密航業者は定員の何倍もの人をゴムボートに乗せ、偽物の救命胴衣を売った。島に上陸した人々は、ギリシア本土からマケドニア、セルビア、ハンガリー、オーストリアを抜け、ドイツやスウェーデンを目指して歩いた。バルカン・ルートと呼ばれる。2015年に海を渡ってヨーロッパに着いた人は、国連の集計で100万人を超えた。
欧州連合の決まりでは、難民は最初に着いた国で保護を申請することになっていた。だがギリシアやイタリアだけで受け止められる数ではなく、各国は人々を先へ通した。国境の検査をなくしたシェンゲン協定(シェンゲン協定)の仕組みが、ここで試された。8月、ハンガリーの首都ブダペストの駅には、西へ向かう列車に乗れない数千人が足止めされた。

8月31日、ドイツのメルケル首相は記者会見で、「われわれはやり遂げられる」と語った。9月2日、トルコのボドルムの浜に、シリアのクルド人の3歳の男の子、アラン・クルディの遺体が打ち上げられた。うつ伏せに横たわる小さな体の写真は、世界中で報じられ、人々の受け止め方を大きく揺さぶった。9月4日の夜、ドイツとオーストリアは、ブダペストで足止めされていた人々を受け入れることを決めた。ミュンヘンの駅では、市民が拍手と差し入れで人々を迎えた。ドイツが2015年に受け入れた庇護の希望者は、約90万人にのぼった。
ハンガリーのオルバーン首相は、反対の道を選んだ。ヨーロッパのキリスト教の文化を守ると言い、9月にはセルビアとの国境に有刺鉄線の柵を張り巡らせ、続いてクロアチアとの国境も閉じた。流れはクロアチアやスロヴェニアへ移った。欧州連合は9月、難民を加盟国で分担する割り当てを多数決で決めたが、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ルーマニアは反対し、実際の受け入れはほとんど進まなかった。東と西の加盟国の間に深い溝が生まれた。

年末から空気が変わった。2015年の大晦日の夜、ケルンの駅前で多数の女性が男たちの集団に襲われ、容疑者に北アフリカなどからの移民や難民が多かったことが報じられた。パリやブリュッセルでのテロの実行犯の一部が、難民に紛れて入国していたことも分かった。2016年3月、バルカンの国々は国境を閉じ、欧州連合はトルコと合意を結んだ。トルコからギリシアの島々へ不法に渡った人をトルコへ送り返す代わりに、トルコに資金を出し、トルコにいるシリア難民を正規の手続きで受け入れる、という内容である。海を渡る人の数は急に減った。
その後、ヨーロッパの多くの国で、移民や難民の受け入れに反対する政党が勢いを増した。ドイツでは2017年の選挙で、新しい右派政党が初めて連邦議会に議席を得て、メルケルの与党は大きく票を減らした。同じ2016年、イギリスでは欧州連合からの離脱が国民投票で決まった(ブレグジット)。移民の問題は、その争点の一つだった。

人の自由な移動は、ヨーロッパの統合の柱の一つだった。2015年の危機は、それが国境の外から来る人々をどう扱うかという問いに、加盟国が一つの答えを出せないことを示した。受け入れられた人々の多くは、その後ドイツなどで働き、学び、暮らしを築いている。一方で、地中海とエーゲ海では、その後も海を渡ろうとして命を落とす人が絶えていない。