できごと

ヘルシンキ宣言

Helsinki Accords
AD1975年8月1日
重要度 4
ソビエト連邦グリーンランドアルジェリアポルトガル帝国イランパキスタントルコスウェーデンノルウェーフランスアフガニスタンフィンランドスペインイラク大英帝国ポーランドモロッコイタリアWest GermanyイギリスYugoslaviaルーマニアシリアアイスランドCzechoslovakiaチュニジアEast GermanyブルガリアギリシャハンガリーオーストリアアイルランドAD1975年8月1日ヘルシンキ
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概要

35か国。ソ連は戦後の国境の承認を得た。西側は「人権と基本的自由の尊重」を第7原則に入れた。ソ連は紙だと思った。東欧の反体制派はそれを盾にした。「ヘルシンキ・グループ」。憲章77。それが1989年につながった、と言われる。

場所

ヘルシンキ
60.17°N 24.94°E · フィンランド

本文

第二次世界大戦のあと、ヨーロッパの国境は講和条約で決まったわけではなかった。ソ連はポーランドの東半分とバルト三国を自国に組み入れ、ポーランドはドイツの東部を得て、オーデル川とナイセ川が新しい国境になった。ドイツは東西に分かれたままだった。ソ連は1954年ごろから、全ヨーロッパの安全保障会議を開こうと繰り返し呼びかけた。狙いは、戦後の国境と東欧での自分の勢力を、西側に正式に認めさせることにあった。西側は、ドイツの統一という問題を棚上げしたまま国境を認めることに慎重で、話は進まなかった。

流れを変えたのは、西ドイツのブラント首相の「東方政策」だった。1970年、西ドイツはソ連とモスクワ条約を、ポーランドとワルシャワ条約を結んで、オーデル・ナイセ線を含む現在の国境を武力で変えないと約束し、1972年には東ドイツとも基本条約を結んで、二つのドイツが互いを認め合った。米ソの間でも緊張緩和(デタント)が進み、1972年の暮れからヘルシンキで会議の準備の話し合いが始まった。1973年7月に外相たちの会議が開かれ、その後2年にわたってジュネーヴで細かな交渉が続いた。

1975年、フィンランド・ヘルシンキの米国大使館前。左からキッシンジャー、ブレジネフ、フォード、グロムイコ
1975年、フィンランド・ヘルシンキの米国大使館前。左からキッシンジャー、ブレジネフ、フォード、グロムイコWikimedia Commons David Hume Kennerly · Public domain

西側は、国境を認める代わりに何を得るかを考えた。交渉の議題は三つの「バスケット(かご)」に分けられた。第一のかごは安全保障で、国家の主権、武力を使わないこと、国境の不可侵、領土の保全、内政に干渉しないことなど、国と国の関係を律する10の原則が並んだ。そしてその第7原則に、「思想、良心、宗教、信条の自由を含む人権と基本的自由の尊重」が書き込まれた。西ドイツの求めで、国境は平和的な手段と合意によってなら変えられるという一文も入った。第二のかごは経済、科学技術、環境の協力。第三のかごは「人道の分野」で、離ればなれになった家族の再会、人と情報の自由な行き来、外国の記者の仕事の条件などが並んだ。

1975年7月30日から8月1日まで、ヘルシンキのフィンランディア・ホールに35か国の首脳が集まった。アルバニアを除くヨーロッパのすべての国と、アメリカ、カナダである。アメリカのフォード大統領、ソ連のブレジネフ書記長、西ドイツのシュミット首相、東ドイツのホーネッカー、フランスのジスカール・デスタン大統領、イギリスのウィルソン首相らが並び、8月1日、「最終議定書」に署名した。条約ではなく、法的な拘束力は無い。

1820年以前の都市改造前のヘルシンキ。C.L.エンゲル作画
1820年以前の都市改造前のヘルシンキ。C.L.エンゲル作画Wikimedia Commons Drawn by Carl Ludvig Engel · Public domain

ブレジネフは外交の勝利だと考えた。戦後の国境が、事実上、全ヨーロッパに認められたのである。ソ連の共産党の新聞プラウダは、最終議定書の全文を誇らしげに載せた。だがそれは、ソ連の人々が、自分たちの政府が人権の尊重を約束した文書を、自分の目で読めるようになったことも意味した。

1976年5月、モスクワで物理学者ユーリー・オルロフらが「ヘルシンキ・グループ」を作った。メンバーには、のちにイスラエルへ移るナタン・シャランスキーや、物理学者サハロフの妻エレーナ・ボンネルがいた。彼らは、ソ連政府が自ら署名した約束に違反している事例を集めて記録し、署名した各国に送った。同じような監視の会は、ウクライナ、リトアニア、グルジア、アルメニアにも生まれた。政府は弾圧で応え、オルロフやシャランスキーは逮捕されて、長く収容所に送られた。

アレクサンテリンカトゥ通り(ヘルシンキ、夏)
アレクサンテリンカトゥ通り(ヘルシンキ、夏)Wikimedia Commons Mahlum · Public domain

1977年1月、チェコスロヴァキアでは、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルや哲学者ヤン・パトチカらが「憲章77」を発表し、国が議定書と人権の国際規約に署名しながら、それを守っていないと指摘した。パトチカは警察の長い尋問の後に倒れて死んだ。ポーランドでも、知識人と労働者を結ぶ運動が、議定書を拠り所にした。1978年、アメリカでは東側の約束の実行を見張る民間団体「ヘルシンキ・ウォッチ」が作られ、のちに世界の人権を監視する団体ヒューマン・ライツ・ウォッチになった。

アメリカの国内では、議定書は評判が悪かった。保守派は、フォードがソ連に東欧を売り渡したと非難し、ソ連を追われた作家ソルジェニーツィン(ソルジェニーツィン『収容所群島』)も、西側の譲歩を厳しく批判した。1976年10月の大統領選挙の討論会で、フォードが東欧はソ連に支配されていないと口を滑らせたことは、彼の敗北の一因になったと言われる。次のカーター大統領は人権を外交の柱に掲げ、その後の再検討の会議で、西側は東側の人権侵害を繰り返し取り上げた。

ソ連の指導者たちは、議定書を国境を認めさせるための紙切れとしか思っていなかった。だがその紙は、東側の人々が自分の政府の約束を盾に声を上げる足場になった。1980年のポーランドの連帯の結成、1989年の東欧の革命(ベルリンの壁の崩壊、ビロード革命)に至る道で、ヘルシンキの第7原則がどれほど効いたのかを量ることはできないが、その一つの支えだったと考える研究者は多い。

冷戦が終わると、1990年のパリでの首脳会議で、参加国は冷戦の終わりを宣言する「パリ憲章」に署名した。会議は1995年に常設の欧州安全保障協力機構(OSCE)になった。だが、国境の不可侵という原則も、のちに大きく揺らぐ。2014年、ロシアはウクライナのクリミア半島を自国に組み入れ(クリミアの編入)、2022年にはウクライナへ全面的に攻め込んだ(ロシアのウクライナ侵攻)。ソ連が何よりも求めて手に入れた国境の原則を、その後継の国が破ったのである。

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