カールスバート決議
概要
学生カール・ザントが、ロシアの密偵と噂される劇作家コッツェブーを刺した。メッテルニヒはそれを口実に、ドイツ連邦の全部の国に、大学の監視、学生団体の禁止、出版の検閲を課した。「メッテルニヒ体制」。1848年まで30年、ドイツの自由主義は地下に潜った。ハイネはパリに行った。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
メッテルニヒAD1773年5月15日–AD1859年6月11日 · 課した本文
1815年のウィーン会議は、ナポレオン・ボナパルトが去った後のヨーロッパを、革命の前の秩序に戻そうとした。ドイツには、オーストリアやプロイセンをはじめとする39の国と自由都市が集まる、ゆるやかなドイツ連邦が作られた。会議を取り仕切ったオーストリアの宰相メッテルニヒにとって、何より怖いのは、革命の思想とドイツの統一を求める民族の運動だった。どちらも、多くの民族を抱えるオーストリアの帝国を内側から壊しかねない。
だが、ナポレオンと戦った若者たちの思いは違った。義勇兵として戦った学生たちは、戦いが終われば一つの自由なドイツが生まれると信じていた。各地の大学で学生たちは「ブルシェンシャフト」と呼ばれる学生団体を作り、黒・赤・金の旗を掲げた。1817年10月、宗教改革300年とライプツィヒの戦いの4周年を記念して、学生たちはルターゆかりのヴァルトブルク城に集まり、反動的とみなした本を火に投じた。

1819年3月23日、マンハイムで事件が起きた。イェーナ大学などで学んだ神学生カール・ザントが、劇作家アウグスト・フォン・コッツェブーの家を訪ね、短剣で刺し殺したのである。コッツェブーは人気の劇作家だったが、ロシア皇帝から俸給を受けてドイツの情勢を報告し、学生団体や自由主義の運動を雑誌で嘲っていた。ザントはコッツェブーを祖国の裏切り者と呼んだ。ザントは自殺を図ったが死にきれず、翌年、処刑された。若い学生たちの中には、彼を殉教者のように慕う者も出た。
メッテルニヒにとって、これはまたとない口実だった。8月、彼はボヘミアの温泉町カールスバート(いまのチェコのカルロヴィ・ヴァリ)に、プロイセンをはじめとするドイツ連邦の主な国の大臣たちを集め、ひそかに対策を話し合った。プロイセンの王も、学生たちの運動を危険視していた。

まとめられた決議は三つの柱からなる。第一は大学法である。各大学に政府の監督官を置いて講義と学生を見張らせ、国家の秩序に反する思想を広めた教授は職を解かれ、ほかの国の大学でも雇われない。学生団体は禁じられた。第二は出版法である。新聞や雑誌、20ボーゲン(およそ320ページ)以下の印刷物はすべて、出版の前に検閲を受けなければならない。分厚い学術書は読む人が少ないので見逃され、薄い冊子や新聞が狙われた。第三に、マインツに連邦の中央調査委員会を置き、革命の陰謀を全国にわたって調べることにした。
9月20日、フランクフルトのドイツ連邦議会は、この決議を5年の期限つきで可決した。1824年には期限なしに延長された。
それから各地で「扇動者狩り」が始まった。哲学者フリースはイェーナ大学の教壇を追われ、愛国の詩人として知られたアルントはボン大学の職を停止された。若者に体操を教えて「体操の父」と呼ばれたヤーンは捕らえられ、何年も要塞に閉じ込められた。神学者シュライアマハーも監視の目にさらされた。手紙は開けられ、密告がはびこった。
自由な言葉は、国の外へ逃れるか、文学や学問の中に隠れるしかなかった。詩人ハイネは1831年にパリへ移り、そこからドイツを風刺し続けた。若い劇作家ビュヒナーは革命の檄文を書いて追われ、スイスへ逃れて、1837年にチューリヒで23歳で死んだ。多くの自由主義者がフランスやスイスやアメリカへ渡った。表の政治を奪われた市民たちが、家庭の団欒や趣味に閉じこもった穏やかな暮らしは、のちに「ビーダーマイアー」の時代と呼ばれる。
1830年のフランスの七月革命の後、ドイツでも一時運動が盛り上がり、1832年にはハンバッハ城に3万人ともいわれる人々が集まって統一と自由を叫んだが、連邦は締めつけをさらに強めた。この体制が崩れたのは1848年である(1848年革命)。3月、ウィーンで革命が起き、メッテルニヒは辞任してロンドンへ逃げた。ベルリンでも市街戦が起き、4月、連邦議会はカールスバート決議を廃止した。29年が過ぎていた。その年、ロンドンでは『共産党宣言』が出版され、フランクフルトでは黒・赤・金の旗の下にドイツ全体の国民議会が開かれた。かつて学生たちが掲げた三色は、いまのドイツの国旗になっている。