できごと

カールスバート決議

Carlsbad Decrees
AD1819年9月20日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマークTuranペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1819年9月20日ウィーン
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概要

学生カール・ザントが、ロシアの密偵と噂される劇作家コッツェブーを刺した。メッテルニヒはそれを口実に、ドイツ連邦の全部の国に、大学の監視、学生団体の禁止、出版の検閲を課した。「メッテルニヒ体制」。1848年まで30年、ドイツの自由主義は地下に潜った。ハイネはパリに行った。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

関わった人(1)

メッテルニヒAD1773年5月15日–AD1859年6月11日 · 課した

本文

1815年のウィーン会議は、ナポレオン・ボナパルトが去った後のヨーロッパを、革命の前の秩序に戻そうとした。ドイツには、オーストリアやプロイセンをはじめとする39の国と自由都市が集まる、ゆるやかなドイツ連邦が作られた。会議を取り仕切ったオーストリアの宰相メッテルニヒにとって、何より怖いのは、革命の思想とドイツの統一を求める民族の運動だった。どちらも、多くの民族を抱えるオーストリアの帝国を内側から壊しかねない。

だが、ナポレオンと戦った若者たちの思いは違った。義勇兵として戦った学生たちは、戦いが終われば一つの自由なドイツが生まれると信じていた。各地の大学で学生たちは「ブルシェンシャフト」と呼ばれる学生団体を作り、黒・赤・金の旗を掲げた。1817年10月、宗教改革300年とライプツィヒの戦いの4周年を記念して、学生たちはルターゆかりのヴァルトブルク城に集まり、反動的とみなした本を火に投じた。

カールスバート決議による出版・言論の統制を揶揄した当時の風刺石版画
カールスバート決議による出版・言論の統制を揶揄した当時の風刺石版画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1819年3月23日、マンハイムで事件が起きた。イェーナ大学などで学んだ神学生カール・ザントが、劇作家アウグスト・フォン・コッツェブーの家を訪ね、短剣で刺し殺したのである。コッツェブーは人気の劇作家だったが、ロシア皇帝から俸給を受けてドイツの情勢を報告し、学生団体や自由主義の運動を雑誌で嘲っていた。ザントはコッツェブーを祖国の裏切り者と呼んだ。ザントは自殺を図ったが死にきれず、翌年、処刑された。若い学生たちの中には、彼を殉教者のように慕う者も出た。

メッテルニヒにとって、これはまたとない口実だった。8月、彼はボヘミアの温泉町カールスバート(いまのチェコのカルロヴィ・ヴァリ)に、プロイセンをはじめとするドイツ連邦の主な国の大臣たちを集め、ひそかに対策を話し合った。プロイセンの王も、学生たちの運動を危険視していた。

会議体制の設計者、メッテルニヒ公。1821年から1848年の革命までオーストリア帝国の宰相(ローレンス画、1815年)
メッテルニヒWikimedia Commons Thomas Lawrence · Public domain

まとめられた決議は三つの柱からなる。第一は大学法である。各大学に政府の監督官を置いて講義と学生を見張らせ、国家の秩序に反する思想を広めた教授は職を解かれ、ほかの国の大学でも雇われない。学生団体は禁じられた。第二は出版法である。新聞や雑誌、20ボーゲン(およそ320ページ)以下の印刷物はすべて、出版の前に検閲を受けなければならない。分厚い学術書は読む人が少ないので見逃され、薄い冊子や新聞が狙われた。第三に、マインツに連邦の中央調査委員会を置き、革命の陰謀を全国にわたって調べることにした。

9月20日、フランクフルトのドイツ連邦議会は、この決議を5年の期限つきで可決した。1824年には期限なしに延長された。

それから各地で「扇動者狩り」が始まった。哲学者フリースはイェーナ大学の教壇を追われ、愛国の詩人として知られたアルントはボン大学の職を停止された。若者に体操を教えて「体操の父」と呼ばれたヤーンは捕らえられ、何年も要塞に閉じ込められた。神学者シュライアマハーも監視の目にさらされた。手紙は開けられ、密告がはびこった。

自由な言葉は、国の外へ逃れるか、文学や学問の中に隠れるしかなかった。詩人ハイネは1831年にパリへ移り、そこからドイツを風刺し続けた。若い劇作家ビュヒナーは革命の檄文を書いて追われ、スイスへ逃れて、1837年にチューリヒで23歳で死んだ。多くの自由主義者がフランスやスイスやアメリカへ渡った。表の政治を奪われた市民たちが、家庭の団欒や趣味に閉じこもった穏やかな暮らしは、のちに「ビーダーマイアー」の時代と呼ばれる。

1830年のフランスの七月革命の後、ドイツでも一時運動が盛り上がり、1832年にはハンバッハ城に3万人ともいわれる人々が集まって統一と自由を叫んだが、連邦は締めつけをさらに強めた。この体制が崩れたのは1848年である(1848年革命)。3月、ウィーンで革命が起き、メッテルニヒは辞任してロンドンへ逃げた。ベルリンでも市街戦が起き、4月、連邦議会はカールスバート決議を廃止した。29年が過ぎていた。その年、ロンドンでは『共産党宣言』が出版され、フランクフルトでは黒・赤・金の旗の下にドイツ全体の国民議会が開かれた。かつて学生たちが掲げた三色は、いまのドイツの国旗になっている。

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