登記が権利を作る
概要
土地を買うとき、売り主が本当に持ち主かを確かめるには、過去の証書を何十年分もさかのぼって調べるしかなかった。一枚でも欠ければ、後から別の相続人が現れる。南オーストラリアのロバート・トレンスは、船の登録簿の考え方を土地に持ち込んだ。国が台帳を作り、そこに載っている者が持ち主である。証書の連なりを調べるのではなく、台帳の現在の一行だけを見る。誤りがあれば国が補償する。手続きが速く安くなり、この方式は各地に広がった。ただし台帳を作る過程で、書面を持たない先住民の権利は、そこに載らなかった。
場所
-34.93°N 138.60°E · オーストラリア・南オーストラリア州
本文
土地を買うとき、いちばん怖いのは、売り主が本当の持ち主ではないことである。19世紀半ばまで、イギリスとその植民地でそれを確かめる方法は一つしかなかった。証書をさかのぼることだ。いまの持ち主は誰から買ったのか、その人は誰から買ったのか、さらにその前は。売買や相続のたびに作られた証書を一枚ずつたどり、権利がとぎれずに受け渡されてきたことを確かめる。これを証書の鎖と呼ぶ。
どこまでさかのぼればよいのか。イングランドでは60年ほどが目安とされた時期があり、のちにだんだん短くなった。しかし、どれだけさかのぼっても安心はできない。鎖の一つでも欠けていれば、後になって別の相続人が現れ、「あの売買は無効だった」と言い出すかもしれない。そうなれば、お金を払った買い主のほうが負けることもある。だから買い主は弁護士を雇って証書を調べさせた。時間がかかり、費用がかさむ。値段の安い小さな土地ほど、調べる費用が割に合わなかった。
この問題が最も切実だったのが、南オーストラリアである。1836年に始まったこの植民地は、囚人を送る流刑地ではなかった。土地を売り、その代金で本国から移民を呼び寄せるという、エドワード・ギボン・ウェイクフィールドの「組織的な植民」の考えにもとづいて設計された。土地の売買が、最初から経済の中心にあったのである。そして、すぐに混乱が起きた。測量が追いつかず、同じ区画が二重に売られ、証書がなくなり、裁判が増えた。1851年に隣のヴィクトリアで金が見つかると(オーストラリアのゴールドラッシュ)、人が押し寄せ、土地の取引は一気に増えた。昔ながらの証書の鎖では、とてもさばききれなかった。

ここで登場するのが、ロバート・リチャード・トレンス(1814〜1884年)である。アイルランドのコークに生まれた。同じ名の父は経済学者で、南オーストラリアの植民地を作る委員会の委員長を務めた人物であり、首府アデレードを流れるトレンス川は父にちなむ。息子は税関の役人として植民地に渡り、やがて税関の長になった。法律家ではない。
彼が毎日扱っていたものの中に、船の登録簿があった。イギリスの法律では、船は国の登録簿に載せられ、持ち主の名がそこに書かれている。船を買うときは、登録簿のその一行を見ればよく、過去の売買をさかのぼる必要はない。土地も同じようにできないか。トレンスはそう考えた。ただし、彼の考えがどこまで独自のものだったかには議論がある。アデレードにいたドイツ出身の法律家ウルリッヒ・ヒュッベは、ハンブルクなどドイツの都市に古くからあった土地の登記の仕組みにくわしく、トレンスに助言したとされる。

仕組みはこうである。国が土地の台帳を作り、一つの区画ごとに一枚の権利の証書を発行して、その控えを登記所に綴じておく。そして、台帳に持ち主として載っている者が、その土地の持ち主である。登記は権利を「証明する」のではなく、権利を「作る」。過去の取引にどんな傷があっても、いったん登記されれば、それが正しい権利になる。ここが決定的な違いだった。
買う人は、台帳のいまの一行だけを見ればよい。台帳は権利の状態をそのまま映す鏡であり、その裏側にある過去の経緯を覗く必要はない。それでも、役所が書き間違えることはある。登記の誤りで土地を失った人には、国がお金で償う。そのための基金は、登記の手数料から積み立てる。台帳の正しさを国が保証するのである。

トレンスは1857年に植民地の議会の議員になり、短いあいだ植民地の首相も務めた。そして法案を出した。強く反対したのは法律家たちだった。証書の調査は弁護士の大きな収入源であり、素人が法の仕組みをいじるなという声が上がった。トレンスは協力者とともに自ら法案を練り上げ、1858年1月に可決させた。法律は同じ年の7月1日に施行され、トレンス自身が最初の登記の長官に就いた。
この方式は、まもなく広がった。数年のうちにオーストラリアのほかの植民地が続き、1870年にはニュージーランドが取り入れた。カナダの西部の州や、のちにはシンガポールやマレーシアなどでも使われた。発祥の地のはずのイギリス本国は、1875年から少しずつ取り入れたが、全国に行き渡るのはずっと後のことである。アメリカではいくつかの州が採用したものの、広まらなかった。すでに民間の保険会社が、権利の傷を引き受ける「権原保険」という商売を育てていて、国の台帳の代わりを果たしていたからである。日本の不動産登記は、登記を信じて買った人が必ず守られるという効力(公信力)を認めておらず、「登記が権利を作る」この方式とは考え方が違う。
この制度には、影もある。台帳を作るには、最初に誰かを「最初の持ち主」として載せなければならない。オーストラリアでイギリスがとった立場は、この大陸は誰のものでもない土地だというものだった。誰のものでもない土地なら、最初に来た王のものになる。しかし先住民は何万年もこの土地で暮らし、土地との深いつながりを持っていた。そのつながりには書類がなく、台帳には載りようがなかった。
トレンス方式は、その状態を固める方向に働いた。登記が権利を作るなら、登記されていない権利は主張しにくくなる。制度の正確さは、そのまま締め出しの正確さでもあった。
1992年、オーストラリアの最高裁判所にあたる高等法院は、マボ判決で、この大陸が誰のものでもなかったという前提を退け、先住民の土地への権利を法的に認めた(マボ判決)。トーレス海峡の島に生まれたエディ・マボが10年にわたって争った裁判だった。ただし、すでに私有地として登記された土地については、先住民の権利は消えたものとされることが多い。台帳の強さが、そのまま取り返しのつかなさになっている。
それでも、トレンスがしたことの意味は大きい。土地の取引を速く、安くし、普通の人が高い費用をかけずに家や畑を買えるようにした。彼がしたことは単純である。過去をさかのぼることをやめ、その代わりに、いま台帳にこう書いてあるという一行を絶対のものにした。中世のイングランドでは、割り符と国庫の割れた木目が帳簿の書き換えを防いだ。ここでは、国が一つの台帳を独り占めすることで、それを防いでいる。
土地に線を引いて区画に分けること(六マイル四方)と、その区画に名前を載せることは、別の作業である。前者が土地を測れる区画にし、後者が区画を売り買いできる財産にした。そしてその両方の作業の外側に、書類を持たなかった人々が残された。