モンロー宣言

概要
ラテンアメリカが独立し、スペインとその同盟が取り戻しに来るかもしれなかった。モンロー大統領の年次教書。「アメリカ大陸はヨーロッパの植民の対象ではない。ヨーロッパの干渉は合衆国への敵対とみなす。合衆国もヨーロッパに干渉しない」。実際に守ったのはイギリスの海軍だった。80年後、ローズヴェルトが「合衆国が干渉する」に読み替えた。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ジェームズ・モンローAD1758年4月28日–AD1831年7月4日 · 宣言した本文
1823年12月2日、アメリカ合衆国の第5代大統領ジェームズ・モンローは、議会に送った年次教書の中で、ヨーロッパの国々に向けた原則を述べた。南北アメリカ大陸は、もはやヨーロッパの国が新たに植民地にする対象ではない。ヨーロッパの国が自分たちの政治の仕組みをこの半球に広げようとすれば、それは合衆国の平和と安全への脅威とみなす。その代わり、合衆国もヨーロッパの国どうしの争いには関わらない。のちに「モンロー主義」と呼ばれるこの原則は、建国から半世紀に満たない若い国の宣言にすぎなかったが、やがて合衆国の外交の背骨となり、その意味を大きく変えながら、20世紀まで生き続けた。
背景には、中南米で起きていた大変動があった。ナポレオンがスペイン本国を占領した混乱をきっかけに、1810年ごろから中南米の植民地が次々に独立へ動いた。シモン・ボリバルやホセ・デ・サン・マルティンらに率いられた戦いの末、1820年代の初めまでに、メキシコ(メキシコの独立)から南米の南端まで、スペインの植民地の大半が独立を果たしていた。合衆国は1822年、これらの新しい国々を承認し始めた。

ところがヨーロッパでは、ナポレオンの敗北のあと、ウィーン会議を経て、各国の王たちが革命を抑え込む体制を固めていた。1823年、フランスの軍隊がスペインに攻め込み、自由主義の憲法を押しつけられていた国王フェルナンド7世に、元どおりの絶対的な権力を取り戻させた。次は、スペインの王が失った中南米の植民地を、ヨーロッパの王たちが力を合わせて取り戻しに行くのではないか。そんな恐れが広がった。北の太平洋岸では、アラスカを領有するロシアの皇帝が1821年に勅令を出し、北緯51度より北の海岸に外国の船が近づくことを禁じて、南へ勢力を伸ばす構えを見せていた。
最も神経をとがらせていたのはイギリスだった。スペインの独占が崩れたことで、イギリスの商人は中南米と盛んに商売を始めていた。植民地がスペインに戻れば、その市場を失う。イギリスの外相カニングは1823年の夏、合衆国に、両国が共同で、中南米へのヨーロッパの介入に反対する宣言を出そうと持ちかけた。

合衆国の中でも意見は分かれた。元大統領のジェファーソンとマディソンは、イギリスと組むべきだと勧めた。これに強く反対したのが、国務長官のジョン・クインシー・アダムズである。彼は閣議で、イギリスの軍艦の後ろについていく小舟になるより、自分たちの原則をはっきり示すほうがよい、と主張した。共同宣言をすれば、合衆国自身が将来、キューバやテキサスなどに手を伸ばす自由まで縛られかねない、という計算もあった。モンローはアダムズの意見を採り、教書の外交の部分は、アダムズの考えにもとづいて書かれた。
教書の言葉は、三つの柱から成っていた。アメリカ大陸は今後ヨーロッパの国の植民の対象とはみなされない、という非植民の原則。ヨーロッパの国がこの半球の独立国に干渉することは合衆国への非友好的な行為とみなす、という不干渉の原則。そして、合衆国はヨーロッパの内部の問題に関わらない、という原則である。ヨーロッパの君主制の世界と、アメリカの共和制の世界を、大西洋で二つに分けようとする宣言だった。

だが、宣言を出した時点の合衆国には、それを力で裏打ちする海軍も陸軍もなかった。ヨーロッパの政府は宣言をほとんど本気にしなかった。オーストリアの宰相メッテルニヒは、これを思い上がった振る舞いとして非難したと伝えられる。実際に中南米への介入を思いとどまらせていたのは、イギリスの海軍だった。イギリスは自らの商売を守るために、ヨーロッパの国が大西洋を越えて兵を送ることを許さなかった。合衆国の宣言は、いわばイギリスの海の力の陰で成り立っていたのである。
宣言の限界は、その後の出来事が示した。1833年、イギリスは南大西洋のフォークランド諸島を占領したが、合衆国は何もしなかった。1861年に合衆国が南北戦争で手一杯になると、フランスのナポレオン3世はメキシコに兵を送り、オーストリアの大公マクシミリアンを皇帝に据えた。合衆国が強く抗議し、圧力をかけられたのは、南北戦争が終わった後のことで、フランス軍は1867年までに引き揚げ、マクシミリアンはメキシコの共和派に処刑された(フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊)。

「モンロー主義」という呼び名が広く使われるようになったのは1850年代からである。合衆国が国力をつけるにつれ、その意味は変わっていった。1895年、イギリス領ギアナとベネズエラの国境争いに口を出したオルニー国務長官は、合衆国はこの大陸において事実上の主権者であり、その命令は法である、とまで言い放った。1898年の米西戦争で、合衆国はキューバを事実上の保護国にし、プエルトリコを手に入れた。
決定的な読み替えは、1904年にやってきた。セオドア・ローズヴェルト大統領は、中南米の国が慢性的な混乱や借金の不払いで秩序を保てないなら、ヨーロッパの国に介入の口実を与えないために、合衆国が「国際警察」の役を果たして介入する、と宣言した。モンロー主義への「ローズヴェルトの系論」と呼ばれる。これを根拠に、合衆国はドミニカ共和国の関税を管理し、ニカラグア、ハイチ、ドミニカに海兵隊を送り込んで、長いところでは20年近く占領した。パナマではコロンビアからの独立を後押しして運河の権利を手に入れた(パナマ運河の開通)。ヨーロッパは手を出すな、という宣言は、中南米には合衆国が手を出す、という意味に変わっていた。
1930年代、フランクリン・ローズヴェルトは「善隣外交」を掲げて、中南米への軍事介入を控える方針に転じた。だが冷戦が始まると、モンロー主義は共産主義の浸透を防ぐという名目で再び呼び出された。グアテマラやチリの左派の政権の転覆に合衆国が関わり、ソ連がキューバに核ミサイルを持ち込んだ1962年のキューバ危機は、合衆国にとってこの原則への最大の挑戦と受け止められた。

中南米の人びとにとって、モンロー主義は、ヨーロッパから守ってくれる盾である以上に、北の大国が自分たちの裏庭として振る舞う理屈として記憶されてきた。2013年、合衆国の国務長官ケリーは米州機構での演説で、モンロー主義の時代は終わった、と述べた。しかしその後も、この言葉は合衆国の政治家の口から折に触れて持ち出されている。200年前の一通の教書は、今もこの大陸の国どうしの関係に影を落としている。