ドゥニ・ディドロ
概要
『百科全書』を20年かけて編んだ。知識を教会と王から取り上げて並べ直す仕事になる。
関わったできごと(1)
『百科全書』1751年 · 編纂本文
1713年10月5日、フランス東部の町ラングルで、刃物職人の親方の家に生まれた。父は町で信頼された腕の良い職人で、息子を聖職者にしようと考え、イエズス会の学校に通わせた。のちにディドロが職人の仕事に深い敬意を払ったのは、この家で育ったことと無関係ではないだろう。

10代でパリに出て学び、1732年に学位を取った。だが、聖職者にも法律家にもならず、父からの仕送りを止められて、家庭教師や翻訳で食いつなぐ不安定な暮らしを10年あまり続けた。そのなかで、哲学と科学の書物を読みあさり、ジャン=ジャック・ルソーらと知り合った。1746年に匿名で出した『哲学的思索』は、宗教を批判する書としてパリの高等法院に焼かれた。1749年には『盲人書簡』で、目の見えない人の考え方を手がかりに、神の存在を前提としない世界の見方を示し、ヴァンセンヌの城塞に3か月あまり投獄された。
『百科全書』は、もともとイギリスで出た百科事典を訳すだけの企画だった(『百科全書』)。1747年、その編集を、ディドロと数学者のダランベールが引き受けた。二人はこれを、まったく新しい事典に作り変えた。人間の知識のすべてを、理性の目で整理し直し、誰でも読めるようにする。1751年に第1巻が出た。

扱う対象が新しかった。神学や哲学、歴史だけでなく、鍛冶、製紙、時計、織物、ガラス、印刷といった職人の技術を、詳しい図版をつけて載せた。ディドロは自ら工房を訪ね、職人の手つきを見て、道具の名を聞き取り、機械を分解して仕組みを確かめた。それまで、職人の技は書物に載る値打ちのあるものとはされていなかった。親方から弟子へ、口と手で伝えられるだけだったものが、ここで初めて、誰もが読める知識になった。
項目をアルファベット順に並べたことにも意味があった。神学の項目が、鍛冶の項目の隣に来る。王の項目も、農民の項目も、同じ一つの項目にすぎない。知識のあいだの序列が消える。そして、直接書けない批判は、項目どうしの参照で示した。ある項目では穏当なことを書き、関連項目への参照をたどると、読者が自ら別の結論にたどり着くように仕組んだのである。

当然、教会と王権はこれを危険視した。1752年には最初の2巻が発売禁止になった。1759年には、国王の出版の許可が取り消され、教皇も『百科全書』を断罪した。ダランベールは嫌気がさして編集から手を引いた。だがディドロは残った。続きは表向き中止されたまま、ひそかに書き継がれ、執筆者のジョクールは一人で1万7千もの項目を書いて彼を支えた。1764年、ディドロは、出版業者が当局を恐れて、刷る直前の原稿から勝手に危険な箇所を削っていたことを知り、激しく怒った。それでも仕事を投げ出さず、1765年に本文の残りの10巻をまとめて出し、図版の巻は1772年までに出し終えた。本文17巻、図版11巻、項目は7万を超えた。20年あまりの仕事だった。
『百科全書』は高価な本だったが、予約者は4000人を超え、のちには安い版も作られて、ヨーロッパ中で読まれた。ヴォルテールやルソーも執筆者に名を連ねている。のちのフランス革命を準備した書物の一つ、と言われることが多い。

暮らしは楽ではなかった。娘の嫁入りの費用に困っていたとき、ロシアの女帝エカチェリーナ2世が彼の蔵書を買い取った。しかも、本は死ぬまで手元に置いてよく、そのうえ蔵書の管理人として給料まで払う、という条件だった。1773年、ディドロは感謝を伝えるためにサンクトペテルブルクまで旅し、女帝と何度も語り合った。
ディドロは、小説や劇、美術批評も書いた。『ラモーの甥』や『運命論者ジャックとその主人』は、生前にはほとんど出版されず、死後に評価された作品である。1784年7月31日、パリで死去した。70歳。

ディドロの遺骨は、葬られたパリの教会で行方が分からなくなっている。だが、彼が編んだ事典の発想は、いまも生きている。知識を、少数の権威の手から取り出して、誰もが読める形で並べ直す。職人の技も、学者の理論も、同じ高さに置く。私たちが日々使う事典や百科の考え方の源の一つに、ラングルの刃物職人の息子がいる。