奴隷解放宣言

概要
反乱している州の奴隷は「永遠に自由である」。合衆国に留まった奴隷州(ケンタッキー、メリーランド等)の奴隷は含まれなかった。戦争の手段として、大統領の軍の権限で。350万人。黒人が北軍に入った。18万人。戦争は「連邦を守る戦争」から「奴隷を終わらせる戦争」になった。奴隷制の廃止は1865年の憲法修正第13条。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
エイブラハム・リンカーンAD1809年2月12日–AD1865年4月15日 · 署名した本文
1850年代のアメリカでは、奴隷制をめぐる対立が抜き差しならないところまで来ていた。北部では逃亡奴隷を描いたストウ『アンクル・トムの小屋』が広く読まれ、1857年のドレッド・スコット判決は、黒人は合衆国の市民になれず、議会は新しい領土で奴隷制を禁じられないと判じて、北部の怒りを買った。1860年の大統領選挙で、奴隷制を西部の新しい土地へ広げることに反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが勝つと、南部の州は次々に連邦を離れ、アメリカ連合国を作った。1861年4月、南北戦争が始まる。南部の400万人近い奴隷の存在こそが分裂の根にあったが、リンカーンは戦争の目的を、あくまで連邦を守ることだと言い続けた。理由の一つは、連邦にとどまった奴隷州、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリ、デラウェアの境界州だった。奴隷の解放を掲げれば、これらの州が南部の側に移りかねない。北部の白人のなかにも、黒人のために戦う気のない者は多かった。戦争が始まってまもなく、ミズーリで北軍の将軍が独断で反乱者の奴隷を解放すると宣言したとき、リンカーンはこれを取り消させている。
それでも、戦争そのものが奴隷制を揺さぶっていった。北軍が南部に入ると、農園から奴隷たちが逃げ出して北軍の陣地へやって来た。ある将軍は、彼らを敵の戦争の役に立つ「禁制品」と見なして、持ち主に返すことを拒んだ。議会は、反乱に使われた財産や反乱者の奴隷を没収する法律を作り、1862年には首都ワシントンの奴隷制を、持ち主に補償金を払って廃止した。奴隷制を廃止せよと訴える人々の声も強まっていた。

1862年7月、リンカーンは閣議で、反乱している州の奴隷を解放する宣言の草案を読み上げた。国務長官スワードは、内容には賛成しつつ、北軍が負け続けている今これを出せば、追いつめられた政府の最後の叫びに聞こえる、勝ったときまで待つべきだと進言した。リンカーンはこれに従い、草案を机にしまった。8月、ニューヨークの新聞編集者グリーリーが、奴隷解放をためらう大統領を紙上で批判すると、リンカーンは公開の返書で、私の最高の目的は連邦を救うことで、奴隷制を救うことでも壊すことでもない、奴隷を一人も解放せずに連邦を救えるならそうするし、全部を解放して救えるならそうするし、一部だけを解放して救えるならそうする、と書いた。すでに宣言を用意していた彼は、世論の反発を和らげる下地を作っていたとも読める。
9月17日、メリーランドのアンティータムで、南軍のリー将軍の北への侵攻を北軍が食い止めた。一日の戦死傷者が2万人を超える、アメリカ史上最も血なまぐさい一日だった。勝ちと言い切れる戦いではなかったが、リーは南へ退いた。5日後の9月22日、リンカーンは予備の宣言を発表した。1863年1月1日の時点でまだ反乱を続けている州の奴隷は、その日から自由になる、という内容である。猶予は100日。その間に連邦へ戻った州は一つもなかった。

1863年1月1日、ホワイトハウスでは恒例の新年の祝賀会があり、リンカーンは何時間も訪問客と握手を交わした。午後、執務室に戻って宣言に署名しようとしたとき、手がしびれて震えていた。署名が震えて見えれば、ためらったと言われると思った彼は、手を休めてから署名したと伝えられる。宣言は、反乱状態にある州で奴隷とされているすべての人は、その日から永遠に自由であり、合衆国の政府は陸軍と海軍を含めてその自由を認め、守ると述べていた。
宣言には大きな限界があった。対象は、まだ北軍の手が届いていない反乱州の奴隷だけで、連邦にとどまった境界州や、すでに北軍が占領していたテネシーやルイジアナとヴァージニアの一部の奴隷は含まれなかった。大統領が自由にすると宣言した奴隷は、大統領の手の届かない所にいて、手の届く所の奴隷はそのままにされた、とイギリスの新聞は皮肉った。同じころ、ロシアでは皇帝が農奴を解放していたが(農奴解放令)、それは平時の法として出されたものだった。法の上でも、これは議会の法律でも憲法の改正でもなく、大統領が戦時の最高司令官として、敵の戦力をそぐための軍事上の措置として出したものだった。戦争が終われば効力を問われかねなかった。

それでも、宣言は戦争の意味を変えた。北軍が南部へ進むたびに、そこにいた奴隷は自由になり、北軍は解放の軍隊になった。宣言はまた、黒人を陸軍と海軍に受け入れることを認めていた。戦争が終わるまでに、およそ18万人の黒人が北軍の兵士として、さらに約2万人が海軍で戦った。その多くは南部から逃れてきた元奴隷だった。マサチューセッツ第54連隊がサウスカロライナのワグナー砦の攻撃で多くの死者を出しながら戦ったことは、黒人の兵士は戦えないという偏見を覆した。南部の連合国を国として認めようか迷っていたイギリスとフランスは、奴隷制の側に立つことになるのを嫌い、承認に踏み切れなくなった。
奴隷制を法の上で終わらせたのは、憲法の修正だった。リンカーンは宣言の効力が戦後に争われるのを恐れ、奴隷制そのものを禁じる憲法修正第13条を議会に通すことに力を注いだ。1865年1月31日、修正案は下院で可決された。4月、南軍のリーが降伏し(アポマトックスの降伏)、その数日後、リンカーンは劇場で撃たれて亡くなった。修正第13条が必要な数の州に批准されて成立したのは、同じ年の12月である。奴隷制も、犯罪の罰として科すもの以外の強制労働も、合衆国のどこにも存在してはならないと定めた。

南部の奥では、解放の知らせが届くのも遅れた。テキサスのガルヴェストンに北軍の将軍が来て、奴隷はすべて自由であると告げたのは、1865年6月19日のことだった。この日は「ジューンティーンス」として黒人の人々のあいだで祝われ続け、2021年には国の祝日になった。
奴隷にされていた人々の自由は、その後の長い苦難の始まりでもあった。南部の再建が終わると、黒人の選挙権は奪われ、人種を分ける法律が作られていった。宣言から100年後の1963年、マーティン・ルーサー・キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で、黒人はまだ自由ではないと演説した。宣言の正式な原本はワシントンの国立公文書館に残っている。リンカーンが手で書いた草稿は、南北戦争中に寄付のために売られてシカゴに渡り、1871年のシカゴの大火で焼けた。